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ししがたに(鹿ケ谷)て どんなところ? 

鹿ケ谷に眠る人々
1)新島襄  2)内藤湖南  3)中沼了三  4)九鬼周造  5)谷崎潤一郎
6)河上肇  7)福田平八郎  8)冷泉天皇  9)琵琶湖疏水工事犠牲者17名
10)田辺朔郎 11)北垣国道  12)八橋検校  13)京大医学部解剖塚  14)会津藩士
15)会津小鉄  16)黒住宗忠  17)鈴虫・松虫  18)厨川白村  19)海保青陵
20)斎藤利三   21)橋本峰雄  22)向井去来  23)桜田一郎  24)竹内栖鳳
25)山崎闇斎   26)狩野直喜  27)朝田善之助  28)笠原光興  29)木下廣次
30)京都府立医科大学墓地  31)平澤 興  32)赤松俊秀  33)山本覚馬
34)徳富蘇峰


哲学の道 四季の風景 ギャラリー は→こちらへ。

ししがたに(鹿ケ谷)
 歴史上では、平家打倒をねらう勢力(後白河上皇一派)が密議をこらした地として登場します。平清盛(1118-1181)の権勢を快しとしない不満分子が、1177(安元3)年にここ鹿の谷・俊寛僧都の山荘に密会し、平家打倒の陰謀をこらしていたというのです。折しも密告する者があって関係者全員捕らえられ、俊寛は「喜界が島」(現鹿児島県大島郡喜界町)、[一説に大隅諸島「硫黄島」(現同県鹿児島郡三島村 )だとする]に流されました。大文字山のふもとにあたる鹿ケ谷一帯は、地名が示す通り、「しし=ケモノ」を捕獲してその肉を供給する、山の民の活動領域であったと考えられます。都における新興勢力の平氏は六波羅を拠点とし、山の民と関係が深かったといわれますが、そのほか当地が園城寺の寺域につらなるところから、延暦寺対園城寺の抗争にあたっても、何がしかの役回りを担ったのではないかと推測されます。     
 園城寺は延暦寺5代目天台座主円珍(智証大師)(814- 891年)の時に延暦寺の別院となった寺で、円珍は大峰にて山岳修行し、その後を受けた増誉(1032-1116年)が白河上皇(1053-1129)の熊野詣での先達を勤めた功により聖護院を賜り、熊野三山の修験の検校となりました。聖護院の森の紅葉が錦のように見事であったので、一帯を錦林と呼ぶようになったとか。近辺の熊野神社、若王子神社ともに、熊野信仰を今に伝え、修験と縁の深い土地柄であります。
 1889(明治22)年4月、鹿ケ谷村は京都市上京区(当時は上京と下京の二区制)に編入され、この頃建都1100年記念事業の一環として琵琶湖疏水が建設され、その流れに沿って画家橋本関雪が桜を植えたことにより、近辺の風景までが一変するに至りました。北から南へ流れる京洛の河川と真反対に南から北へ疏水分流は、桜のトンネルをくぐって流れます。いつの頃からか、この疏水沿道約1.5kmを「哲学の道」と呼ぶようになり、年々大勢の観光客が(近年は外国からも)散策にやってこられます。 因みに、銀閣寺から南に600mほど歩いた哲学の道のほぼ中間点辺に、当教会があります。
 鹿ケ谷は傾斜地という地形上の理由のほかに、地盤が固くやせていたこともあって、水田は見られず、畑作が主流でした。物産としては、鹿ケ谷かぼちゃ(ひょうたん型の在来種)が有名で、人手による品種改良を免れた素朴な味が珍重されています。もっとも畑自体は当地から姿を消してすでに久しく、今手に入る鹿ケ谷かぼちゃは郊外で生産されたものです。
 

写真は2002年8月4日撮影。実物高さ約20cm。

大正から昭和初期にかけて西田天香師が、当地桜谷町に一燈園の道場を開いておられました。山科に移転した跡地に今はノートルダム女学院が建っています。



 鹿ケ谷の不思議  ?鹿はなぜ「しし」と読む?

 むかしは、獣(けもの)を総じて「しし」といい、獣の肉をも「しし」と言いました。(宍戸錠という俳優がいますが、宍は肉の俗字です。)細かく種類を分けていう必要が生じてから、鹿のことを「かのしし」と言ったのでしょう。万葉かなでは、鹿という字を「か」と読ませ、鹿の子を「かのこ」と言うので、類推してそう思うだけのことですが。今でも「いのしし」という言い方が残っているので、「かのしし」もありえないことではない。「かのしし」は「しか」に転じ、「いのしし」は「いのしし」のまま残ったというわけ。後には、「しし」といえば百獣の王ライオンをさし、漢字も「獅子」を当てるので、「ししがたに」のししを「鹿」で表記するのが奇異に感じられるようになりましたが、日本語のもとをたどれば、納得されましょう。理屈からすると、古くさかのぼれば、獅子舞も鹿踊りであってよいわけです。それはそうと、馬や牛は、「しし」とは言わなかったらしい。牛馬は野獣の範疇から外れていた(つまり家畜だった)ために。島根県にある宍道湖(しんじこ)も、もとを正せば「ししの道」つまり「けもの道」という名前の湖であることが分かります。
鹿をししと読む例は、『鹿威』ししおどし。上向き加減の竹筒に一定量を越えて水がたまると竹筒が下向きに転じその反動でコトンという音を発する仕掛け。

まったくの余談ながら、銀閣寺の南に位置する法然院の入り口に「本山志ゝの谷法然院」と刻まれた大きな石柱が立っている。 どんな字を当てるかについては、昔の人はさほど頓着していないという証拠を見るような思いがする。いわゆる万葉かな風の表記法は、万葉集の時代をはるかに降っても変体かなとして受け継がれて、よく見かけます。けっして珍しいものではありません。

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