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<せ>生死
 生まれることと死ぬこと。金光教祖金光大神は、「いのちの誕生について、肉体は地に、霊魂は天に、それぞれ由来し、それがほどけて元に帰るのが死である」と説く。そうしたいのちの成り立ちを仔細に観察すれば、天地という特大のいのちが生きて働くそのおかげで、個々のいのちの新陳代謝一切が出来ているのであって、生きたからおかげ、死んだからおかげでないと速断してはならないとも教えている。つまり受け入れて下さる天地の営みに委ねるしか、死後の安心は得ることができないのだから、「死に際にもお願いはせよ」と説き、天地と一心一体になる方向での取り組みが大事であると諭した。
 金光大神は、死を生の消滅ととらえず、他界への移住とは見ない死生観を語っている。すなわち、日常のいのちの営みからして、昼間に自らの務めに精を出して充実した生を生きることが、夜の安眠につながるごとくに、天地の懐に安んじて、神の願いに重ね合わすべく世と人々の助かりを願い人生を完成させる取り組みを通して 死後 神と祭られるのを楽しみに、日々の生活を充実させよと教え導いている。
 いのちの誕生を祝福しながらも、いのちは例外なく死滅を運命付けられている、この不条理をどう克服するかは、宗教の担う主たるテーマである。人間だけが直面する問題であることからすれば、人間らしく生きるための仕掛けともいえる。
 先人の出した解答で満足するだけでなく、自らの解答を出す努力が、生の充実につながってくるように思えてならない。
 
「みたま」 →「幽界」 →「あの世」参照

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