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<か>幽界(かくりよ)

 死者の行く世界。この世を現世(うつしよ)というのに対して、あの世のこと。日本では古来、死者は黄泉(よみ)の世界に行くといわれてきたが、それは地底のイメージであり、死者を再生させる母体のイメージにまでつながるもののように感じられる。
 科学的合理主義を奉じて真偽正邪を判断する近代以降では、死後の世界を云々するのは非科学的だ、科学的根拠の無い迷信だと見なされるが、いのちの世界は本来科学でとらえきれない、非合理そのものであり、現世だけ肉体だけに限って見ていけば事足りるとするわけにはいかない性質を持っている。だからといって、何を説いても勝手だというわけではもちろんない。道理として共有できる、理解可能性を求めていかなくてはならない。
 いのちはいのちから生まれる。この絶えざる繰り返しの結果、今私はこの世に生を受け、生きている。その成り立ちを図示すれば、逆三角形となって、先祖と呼ぶ過去のいのちの総和が私という一点に注がれた形になる。過去の全いのちを背にして私は今を生きているのであって、こうしたいのちのありようは、個々を個体と見る科学的な見方ではとらえることができない。親から子に注がれる連綿とした流れとしていのちを見ていく必要がある。いのちは、分析してとらえようとしても、これがいのちですといのちだけを取り出して押さえることが不可能であって、肉体が新陳代謝を行っているその営みの中にいのちが受け継がれていると見るばかりである。
 常識から言えば、死は、個体の滅失として認識される。その時点で、いのちが途絶えたと受け取られるのであるが、上述のいのちの特性(個を越えたあるいは個を貫いて流れるありよう)を踏まえれば、いのちは肉体を失っても絶えてしまうことがないと考えることができる。日本では、それに「魂」という名を付けて、あるいは霊魂とよび、あるいは霊神とよんで、伝統的にこれを礼拝の対象としてきた。
 金光教祖金光大神は「先の世のことは、分からない」と仰せになっているが、先の世を思うよりも今を充実して生きていくようにというご態度は間違いなく一貫している。ある種の合理的な精神として理解することもできる。しかしながら、死者の霊を大切にせよと教えておられるところを見落としてはいけないのであって、それは永世生き通しの救済者として自ら死後の世界にあってもなお働き続けることができることを現に示しておられることからも、単なる現世主義でないことは言をまたない。
 一日に昼と夜があるのを、昼だけに意味を見出し夜の闇を昼の明かりに変えてしまえという近代的思考は、死に際して人間に敗北感をもたらすばかりとなっていないだろうか。天地の大なるいのちを親として、その親のもとに分霊を頂いて生まれきたお互い人間であるならば、死にも里帰りという意味があると知らねばなるまい。天地の大いなるいのちに帰一して、この天地の間に生き通していくいのちであること。そこには、敗北も断絶もない、安らかな死があるばかりである。
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