(5)
<お>おかげ

 いのちを生かしめる天地金乃神様のお働きの総称。天地の間に生きているかぎり、例外なくおかげを受けている。けれども、おかげで生きられている自分であると気づいて、お礼に努める人は、極めて少ない。それゆえに神と人とがお世話になって御礼をいう関係を結んでいけるようにと、金光教祖金光大神様が天地金乃神様からお頼みを受けられて、取次ぎをなさることになった。金光教は、それを使命として今日も活動を続けている。
 昔からの伝統的な考え方によれば、神仏に願をかけてご利益(りやく)に浴する場合のご利益をおかげと言った。顕著な霊験にひかれておかげ参りが流行することもあった。その場合のおかげは、文字通り自己の欲求に応えて神仏が下さる利益であり、取引き的な意味合いが濃い。つまり、我田引水が基調であって、お百度参りも裸参りも、自分をアピールするところに力点があるといえよう。
 これに対して天地金乃神のおかげは、人が願う前からいのちの誕生、そしていのちの存続・成長にかかわって、万人に注がれている。いのちにとって根源的ともいうべきこのおかげは、神と取引きして手に入れるようなものではありえず、運命的なものである。人は、すでに与えられたいのちとその生存の基盤に目を注がず、まだ手に入れていないあれこれを追い求めて、神に願望成就を祈念する。取引きして、たとえばこれこれの物をおそなえしますからというようなことで、神の関心をかった気になったりもする。それがどれほど神を見下げた行為であることか、まるで気がつかない。自分の手柄にばかり気が走り、神様のおかげを小さく小さく見て、その小さい神様を手足に使おうと躍起になっているのではないか。
 天地金乃神様の絶大なるおかげに浴して、おかげで生かされている人間としては、神様へのお礼のごあいさつから一日を始めずにはいられない。もちろん生活の立ち行きにかかわってお願いもしていかずにはいられないのであるが、それは、神様を手足に使うのではなくて、自分を神様の手足に使って頂いて、ここまでのおかげにお応え申していきたいということである。
 神様はおかげを無条件に下さっているのだけれども、応答のし具合によってこぼれ落ちる方が多くなっていくこともある。おかげがないと思える時は、神様との応答関係を結び直せということである。頭が高くなっていないか、生神金光大神様は、おかげを漏れ落としなく十二分に頂かしたいその一念できょうもお取次ぎ下さっている。
  →参照「利益(りやく)・おかげ
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