(6)
<ひ>日柄 

 日の吉凶のことを気にする人が案外多い。暦に仏滅だの大安だのと書いてあれば、何となく無視できない気になるのも、人間の弱さゆえということになろうか。安心して日々を送るために、これさえ守っておればよいというものを人々が求めているので、それに応える恰好の行動指針として、日ばかりか方角に関してあるいは家や墓に関して、吉凶を説く諸説が今日も根強く生き残っているのであろう。
 紀元前の中国で、天変地異から人生の不幸な出来事まで、その原因を知り、将来の幸福に資したいとの思いが、天体の動きに注目させ、予言を盛んにしたという。人々の幸福を求める切実な思いが、天体の運行を単なる法則として捉えるのでなく、その動きの中から天の意志、ひいては自分たちの未来を読み取る方法を編み出すまでに至ったものと解される。そのようにして成立した易に代表される中国流の世界観は、日本に入って陰陽道(おんみょうどう)と呼ばれ、一層神秘的な色合いを付加されて、除災招福のための呪術、禁忌あるいは信仰(たとえば北斗星を神格化した妙見菩薩)などとしても広く行われるようになった。具体的には、日々の生活行動全般、外出、旅行、建築、農作業、縁談、結婚、葬儀などを暦に照らして、特に金神に代表される暦神の滞在する方角を避けて、行動することが重要とされた。
 明治政府は、文明開化政策を遂行する観点から、迷信まみれの旧暦を廃し、太陽暦に切り換えた。これによって日柄を選ぶことはなくなったかというと、事実は逆で、旧暦ならば何月朔(ついたち)は大安で始まるというような決まりが明確に分かっていたのに、それが新暦では裏に隠された分かえって神秘性を加え、合理が重んじられるはずの現代でも、結婚・建築・葬儀といった一大事に際しては、安全のおまじないのように日柄を見ることが広く行われている。
 金光教祖金光大神は、日の吉凶を選ぶことがいかに天地の道理に反するかを説いている。すなはち吉と定めた日に行動するのは、神の留守を狙うものであり、人間の力だけでやっていけるのだとする考えに基づく。これは人間の傲慢以外の何ものでもない。金光大神は、神とともに生きる生き方、神のお出ましを頂き、自身の不行届きを率直におわびしていくところから、真実安心できる人生を生きることができると説いている。この今を神から与えて頂いたかけがえのない時と受け止めて、お礼とお詫びとお願いを申しながら、お引き立てに与っていく。そこには、日の吉凶を選ぶ余地など全くない。
 不幸の原因は、他でもない、神をはずして生きていけるもののように思っているその傲慢な心にある。日柄・方角にかぎらず、縁起担ぎにも医薬信仰にも、気休め程度の働きはあるだろうけれど、神を抜きにしていくかぎり、本当の助かり・真の幸福につながらないことを肝に銘じておかなくてはならない。生まれる時と死ぬ時に日を選ばず、途中事にばかり日をやかましく言って、それが一体どれほどのことになるというのか。いのちの根っこを神によって支えられている私、神の願いに心を寄せ神にお許しをえて、この与えられた今・この場所でいのちを最大限輝かせていきたい。


(7)「めぐり」へ

表紙ヘ戻る