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<め>めぐり

人生途上で出会う様々な難儀の因として、神から指摘されうるのは、人間の無礼な生き方に尽きる。そうした無礼な生き方が、先祖から代々を貫いて、めぐりめぐって、自分のところまで流れ込んで来ていることを指す。
 普通、自己(我欲)中心に生きることを問題と感じないで生活しています。何事によらず自分の手元に集めれば集めるほど、自分の腕のよさに酔いしれる。入手が困難と思しき時は、神仏を動員してでも自分の持ち物をより多く立派なものにしようと躍起になる。自分をこの世の中心におくことが、神をないがしろにし、神を便利屋さんに使う無礼千万な行為であると人間自身が気づくまで、神様のお苦しみがつづく。これが、めぐりの中身です。世間流の神仏信仰では、めぐりを解消するどころか、その上積みをすることになるので、神様が金光大神様に取次ぎ助けを依頼せずにいられなかったわけがよく理解できます。
 自分が生きられる、息ができる、それを可能ならしめて下さっている、いのちの根源としての神様を頂き、自分をその手足と自覚するところからの、いのちの完全燃焼を願う取り組みは、神の願いに生きて人を助ける働きを生むところから、「徳を積む」といわれます。めぐりを積む外ない、恩知らずそのものの私でありますのに、生神金光大神様の取次ぎによって、徳を積む報恩の人生を歩ませて頂けることになった。これが、金光教の信心をして受けることのできる究極のおかげであります。
 めぐりを「あきらめるほかない宿命=因果応報」と受け止めるのは間違いです。身に起こってくる人生の様々な難儀を、神様のバチが当たったと受け止めたのでは、今いのちの根源からその身を支え生かして下さっている神様のご苦労に対して、まったく目が向かなくなるからです。どれほどの厳しいご指弾がくだされても、それをしも『助かってくれよ』とのご悲願として受け取らせてもらうのでなければ、神と人とがあいよかけよで助かることになりようがないのです。天地の親神様から自分の手元に届けられているものが量り知れぬのに比して、自分がいかほどのお返しを心掛けてきたと言えるだろうか。自らに問うて自覚させられる自己の無礼性(文字通りお礼の無さ)は、少々の善行で帳消しにしてもらえるような生やさしいものでないと思い知るべきです。先祖代々から自分に至るまでのことを思えば、いのちの流れとしてわが身に負うべき借りの多さに驚かないではいられません。
 時として、信心しているわが身に災難がつづき、信心気のない他人に順風がつづくのはなぜかという疑問にとらわれることがあります。自身の棚卸が不徹底なところから生ずる迷いです。神様の手にかかってあればこそ生き得られる私。そこを気付かせて下さる神様のご親切。ハードルを上げながら力をつけよと励まして下さる親心。そのお心に添って自身を道に基づかしめ、自分磨きに努めるならば、やがてこの疑問は氷解するにちがいありません。どれほど人がうらやむ幸運を手に入れ豪勢をきわめても、神様のご恩を知らず、わが腕を誇るばかりでは、めぐりの上積みにしかならないのです。
 金光大神様のご信心は、親神様のお心を分からせてもらいたいとのご一心から発したものと拝せられます。めぐりを積んでしか生きられない私との自覚のもとに、神様のご処断にこの身を委ねますという姿勢に徹せられた時、このような私になおも救いの手を差し伸べて下さっている親神様の親心に出会われて、そのありがたさに感涙されたのでした。
 そのようにして親心に通い始めた時から、神人生活=徳積みが始まるのです。
 なお、めぐりを血統においてのみとらえる考え方は、障害者、公害病患者、戦争犠牲者等に対して自分と関係ないという態度につながりやすく、社会問題の解決を困難にさせるので、人類が負わなければならないめぐりというとらえ方に立って考察する必要があることを付言しておきます。(了)


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