(8)

<て>天地金乃神

 金光教祖生神金光大神によってこの世に出された、万物を成り立たせる根源の神。

一般に人々の日常生活に深くかかわって日柄方角の禁忌(タブー)を迫る神として、金神がよく知られていた。この金神は、禁忌を犯す者にたたり障りをする、人を苦しめる、と恐れられ、そのため人々は「さわらぬ神にたたりなし」と言い習わし、神を避けて通ることに腐心してきた。金光大神もその点に細心の注意を払って生活してきた一人であったが、身内に不幸が相次ぎ七墓を築いた上に、やがて自身が42歳の時に湯水も通らない重患に襲われた。その最中、金光大神は、自らが熱心になしてきた日柄方角を守る行為は、神の留守をねらう無礼そのものであったことに気付いた。つまり、人間が誕生し、人生を生きていく、その一切の営みは、神を抜きにして成り立つものでない。人間にとっての神は、胎児を育む母体に等しいのだから。にもかかわらず、人間の勝手考えで事柄を見て、自分に不都合な部分だけを神の仕業と受け止め、たたられたという。これほど神を神としない無礼な仕打ちが外にあろうか。これでは、どれほど断罪されても仕方のない私だなあ。そう真相に通じることができて、自らの無知を「凡夫ゆえ」と心からおわび申すことができた時に、神はその無礼千万な人間を無礼だらけのまま、「よし」と迎え取られたのである。

その身の無礼千万さ。そこに目覚めてくれよ。天地金乃神は、人間の無礼な仕打ちに耐えて、なお人間が何とか真相に目覚めてくれるように、願いつづけ養いつづけておられるのであって、人間を罰する、バチをあてるというような心を微塵も持っておられない。この真相を取り次ぎ伝えて、人間と神を助けてくれと金光大神にお頼みになった。

人間がわが腕で生きて行くのだと言い張って無神論を貫こうとも、その足下で必死に支えつづけて下さっているのが、天地金乃神である。近代教育のもとで科学的な思考を身につけて、人間の誕生と生存についても、人間の力でコントロールできるようになったと思いがちであるが、人生はやはり合理を超えた神の手中に根差してこそ成り立っていると知らねばならぬ。合理性有用性だけを押し立てていく相対の世界では、人間も物質あるいは道具としてしか扱われず、そうなればなるほど、人間として生きる意味を問う欲求がますます強くならざるをえない。(今日の若者の問題行動と言われる中にも、そうした欲求を認めることが可能だろう。)

身に痛みが生じる時、自分の無礼さ加減(自己中心性)に思いをいたして、これは神様が私の身のさびをこすり取って下さっているのだと受け取れるならば、痛む中にも神の愛を感じて通ることができよう。このように出来事の意味を了解することができるのは、各人が神から分霊(分けみたま)を頂いて生まれてきているからである。

自分は、神によって神の分霊を分け与えられた上でこの世に差し向けられた、神の子であり、どの人も例外なくそうであることを踏まえることができた時に、(願いをかけられた者としての自覚に立ちえた時に、)この全体世界が単なる物質の集合体、偶然の所産ではなく、神の願いの実現体として明確な意味を持って立ち現れ、単なる利用のしあいではない、お世話になってお礼をいう応答関係が展開し、無限の神愛に包まれて生かされて生きる神人生活が約束される。

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