(65)
<け>ケガレ
 不浄ケガレともいう。一般に神に対しては清浄でなければならないとされ、ケガレを祓うみそぎ事が神道における神への奉仕には必須とされています。
 ケガレは、死のケガレ、産のケガレ、血(生理)のケガレ、の三つを基本とし、これらの不浄によってけがれた人は一定の期間伝染を避けるために、神前を避け他との交流を断って生活するよう定められ、特に死をめぐる禁忌は入念を極め、忌服喪中の仕来りはもとより忌引き(家族の死後職場あるいは学校を休むこと)ももともと伝染病による出勤登校の禁止と変わらないくらいの意味を担った制度であり、葬儀に際しては清めの塩が今なお用いられることからも、死にまつわる不浄ケガレの観念が今も根強く人々をとらえ続けていることは間違いありません。
 金光教祖金光大神は、不浄ケガレを忌み避ける世間のしきたりに対して、どれほどケガレていようとも、天地金乃神は不浄を嫌わずケガレにまみれて一切を受け入れ守り下さる神であると説いています。この天地のお世話になってしか生きえられぬわが身であること。排泄物も死体も天地が受け取って下さればこそ、いのちの糧として生かされ、また清められもするのであること。このように、きれいづくでない天地金乃神にすくい取られる安心の道を取り次ぐ一方で、自他の伸びしろを損傷することは神の願いに反するとして、そうした誤りを犯さないようにと諭しています。
 ケガレの観念は(髪の毛を例にすると理解がつきやすい)本来あるべきところから剥離したものに対する生理的嫌悪感に根差していると思われます。死は霊魂が剥離する事態と見られていた時代、その異常な状態がわが身にも移れば生存が危うくなると恐れて、極力これを遠避けることに努めたのは、それなりに理解できます。ただ、金光大神は、霊魂も天地の神の分霊であり、肉体と分離しても嘆くのではなく、天地の神と一体になって人の立ち行を祈り助ける働きとなるので、霊神様にもおすがり申して共に生きる道を進むようにとケガレ克服の道を取り次いでいます。
「忌み穢れ」
表紙に戻る
TOPへ