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<い>忌み穢れ

 忌みは、禁忌(タブー)とも言われ、その社会で生きる限り守ることを強く求められます。この禁忌を司る代表格の神を「金神」といい、その神罰(たたりさわり)を受けないために日常生活の上に細心の注意を払い、金神の遊行にあわせて方角と日を調べ、金神に行き当たらないよう、陰陽道の説くところに従う処世術が平安時代以降暦と一体化して日本の社会に浸透しました。

 穢れは、気涸れ=本来あるべきところからの剥落=異常という意味らしく、具体的には死と血(女性の生理)と産の三つについてこれらを不浄とし忌避したものです。古来、神道ではこれらの穢れを嫌い、死者の出た家族親族、生理中及び産後の女性、には一定期間、神域、かまどや井戸に近づくことを禁じました。

 特に死をめぐっては、今日でも会葬者に清めの塩を配る習慣が健在であるように、穢れへの気配りが持ち続けられているといえます。その年身内に不幸のあった人は、年末に「喪中のあいさつ状」を出す習慣も、死穢ゆえに神事慶事を遠慮するというわけです。もっとも喪中の期間は、死者との関係の親疎によって差が設けられていて、明治政府の定めた「忌服令」(注)によれば、実父母及び夫は13か月、夫の父母、祖父母は150日、妻、兄弟姉妹及び嫡子は90日、末子養子は30日、孫は7日。妻の父母や兄弟姉妹は対象外であった。(欄外付録参考)今日一律に1年の喪に服する感のある「喪中のあいさつ」は、依拠するべきものを失って単に年賀状を遠慮するといったくらいの軽いものに変化してきているために、喪中がやたら年末に押し寄せる結果となりました。
 因みに、忌引きという制度も、今では単なる葬儀のための休みという意味になってきていますが、元はといえば、伝染病患者を出した家の者が出勤・登校を禁止されるのと非常に近い感じの、死穢に対する忌避の意味を持っていたと推察されます。

 今日なお、神社でお祓いを受ける人が大勢いるということは、裏を返せば穢れを気にする人が珍しくないということであります。そこへ喪家から賀状が届けば、縁起でもないと血相変えて抗議されることもありえよう。しかし、こんな穢れ観念にとらわれていては、女性差別をはじめ、死体や食肉の処理に従事する人達への差別、同和問題の解決が困難なまま持ち越されて行ってしまうだけであります。

 気が涸れ衰弱したのであれば、これを機に気の回復を図ればよいのであって、天地と応答関係にしっかりと結ばれ、受け取っているものを漏れ落とさないよう自身の穴ふさぎに努力する、このような金光教の信心による取り組みを是非ともお勧め申していきたい。

 まったくの余談ながら、正月三が日はお籠りをして気を回復するのが本義で、これも一種の物忌み、つまり出歩くことがタブーであったと思われます。いつしか初詣でを免罪符に出歩くようになってから、それぞれの家内では神不在が進行し正月が俗化したと言えないでしょうか。        

(注)きぶくりょう。日本では早くも大宝令中に服忌と假(休暇)を5段階に分けて規定し、とりわけ父母の喪の際は一旦解官するとも定めてあった。江戸時代武家の拠った忌服令には、父母の忌50日、服13カ月(閏月を算入せず)とあり、忌服期間中は閉門して出仕せず、魚・肉を食わず、髭髪を剃らず、神社に参詣せずと規定していた。明治7年制定の忌服令は、これを踏襲したものらしい。

<欄外付録>
旧「忌服令」に定められた忌服期間。皇室は現在もこれに従っているようです。

13ヶ月……父母、夫、離別の母。
150日……養父母、夫の父母、祖父母。
90日………妻、嫡子、兄弟姉妹、母方祖父母、伯叔父方姑。
30日………嫡母、末子、養子、曾祖父母、異父兄弟。
7日…………嫡孫、末孫、曾孫玄孫、従父姉妹、甥・姪。
なし…………七歳未満。
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