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<し>信心生活
 天地金乃神の願いに添うことを目指す生活。
 いのちを成り立たせる根源の神である天地金乃神以外にこのいのちを預ける先はないと思い定めたところから、新たに生きられるようになる生活のこと。
 金光大神は、「拝めとも何をせよとも言わん。ただ一つ、まことの信心をせよというに、その一つができぬのか」と、語気も鋭く迫っているが、世間でいう信心とか宗教とかの枠の内に収まらない、それらの外部からする規定を跳ね返すような、まことの信心を金光大神は生き抜いた。それは、神あっての人、人あっての神、神と人とが互いの中身に成り合って展開をし続ける生活であった。
 私達の日常の行動は、日に3回食事をとることから日本語を話すことまで、世に習い親に習ったことばかりと言っても過言ではない。習慣をよりどころにして生活が成り立っているかのように錯覚してしまうことが、本来の根拠である天地金乃神からすれば、大いなる間違いとして指摘せずには いられないことなのである。
 改めて、いのちを成り立たせる根源の神に心を寄せて、その指図のもとにわが生活を進めるようにしてみる。病気になっても、医者が薬がというのでなくて、神様が何を願って下さっているのか、そこをまず尋ねていく。そのようにして、信心の成長を願い、信心のおかげを受けていく生活は、換言すれば刻々に神様がお出ましになる生活ということになるのだろう。
 「痛いのが直ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ」という教えは、病気が治りさえすればよいという人間の勝手さを問題にしている。病気なら病気の中を、健康なら健康な中を、いかに信心を育てつつ生きるかという、神様からの問いかけを絶えず受け止めて自分磨きに努める信心生活を実践していきたい。
 →生活即信心
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