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<び>びっくり
 「何事もみな天地金乃神の差し向け、びっくりということもあるぞ。(覚帳21−13 明治6年4月4日の記事)」と、神様は金光教祖金光大神にお知らせになった。その当時のことを推測すれば、明治維新という一大変革の時期にあたり、世の中を秩序立てる価値観から生活のよりどころの暦まで、根こそぎ一新される急激な変化に「びっくり」しないではいられなかったということであろう。
 一人一人の人生の上においても、変わり目というべき出来事が必ず訪れる。なぜかといえば、いのちは時々刻々に変化して止まないのであって、成長といい老化という、みないのちが死に向かって生きていく姿にほかならない。そうでありつつ、日常の感覚としては、今日と同じ明日があるものとして、すべてを運んでいる。突然その落差に出会っては「びっくり」せざるをえないのが、お互い人間の実情である。
 人間の都合からすれば、これまでと同じことでやっていきたい。しかし、神様の都合、いのちの動向からすれば、変化は避けられない。成人して結婚し子供をもうけて親子になるという経過が端的に示すように、いのちはどうしても変化を迫る。予期される変化には「びっくり」することはないかもしれないが、予測もしない中で災難のような予期せぬ変化にも出会わないわけにはいかない。
 地震や嵐といった天変地異は、天地のいのちが生きているゆえに引き起こす変化だといえる。その動きに巻き込まれる形で、個々の人生も大きく変化することを余儀なくされる。それは従来のものをご破算にして、新しいものを生み出す創造の促しとも受け止められよう。人間にとっては災難でしかなくても、いのちにとっては生みの苦しみを伴いつつも新たなものがそこに誕生する、生命の更新として意味あらしめられる出来事となりうる。「何事もみな天地金乃神の差し向け」と仰せになるゆえんであろう。
 変化について行くことができず、あれができなくなった、これができなくなたと、できないことを嘆くばかりの態度に終始していては、いのちは枯れてしまうほかない。新しい事態に面食らうことはあっても、ここで何かできることはないかと、前向きに生きる道を求めて神様の願いを見失わない態度こそ、生神の世界に至る要件と思われる。(了)

(50)おためし

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