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<り>立教神伝
 安政6年10月21日(新暦1859年11月15日)に、神がのちの金光教祖赤沢文治に農業をやめて取り次ぎによる世人救済に専念するよう依頼したお知らせ。
 金光教の立教=起源をいつと見るかは、時代によって諸説あった。1899(明治32)年、独立請願文書中の「教祖略伝」には、安政2年説が見える。1910(明治43)年、教祖御略伝編纂委員会において「覚書」の存在が明らかとなって、その中の安政6年10月21日の記事からこの時のお知らせを「立教神宣」と呼ぶこととし、本教の立教を安政6年10月21日と確定したのである。
 1941(昭和16)年、「金光教教規」及び「金光教教典」中に立教神伝全文を掲げて、教義教制の拠り所と位置付け、今日に至っても、「本教の目的は、立教神伝に始まる金光大神の取次ぎにより、神も助かり氏子も立ち行く世界を顕現することにある」と定めている。
 赤沢文治は、1855(安政2)年の初夏に42歳の大患を助けられて以来、神の意に添うことを最優先課題としつつ、日常生活を営んできたが、1859(安政6)年新暦11月15日に至り、「世間になんぼうも難儀な氏子あり取次ぎ助けてやってくれ」と、神の願いを告げられ、ここに家業を廃し取次ぎに専念する決心をかためた。
 その神の願いの表明に関して注目すべきは、「神も助かり氏子も立ち行き」という部分である。人間が助からないと神も助からない。これほど神が切実に人間の助かりを願われた言葉は、他に例を見ない。
 人間は、取り引きを基調として生きている。神に対しても、これだけしたからおかげを下さいという向かい方になる。しかし、神からすれば始めから取り引きなど成立のしようもない。42歳の厄年を迎えるにあたって、赤沢文治は厄晴れ祈願に手を尽くした。にもかかわらず九死に一生という大患に陥ったのであれば、あれだけ尽くしたのにという恨み節が出てくるのが普通である。けれども、自分は凡夫の身であるゆえに、どこでどのようなご無礼をおかしているか分かりません。どうぞおゆるしくださいというおわびと、神の意を分からせて頂きたいという願いを打ち出されたのである。
 神を神と立て仰ぐという姿勢に、深く心打たれた神は、その信の心をさらに確乎たるものとなすべく、行(修行)を積み重ねしめた。その行き着くところが、難儀な人間を取り次ぎ助けるという、神の一大事業の担い手として生きる道であった。
 (了)

(49)びっくり

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