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<お>親子
 生んだ者と生み出された者との関係を親子と言い、神様と人間の関係も同じことだと教えておられます。子からすれば、わが親が自分の気に入らないからといって、これを取り替えることができないのです。子は親に、全面的に依存する関係から始まってしだいに自立の度を増し、ついに分離独立する宿命にあります。
 親から見れば、子はいのち(血統)を受け継ぐものです。自分ひとりで生まれ育ったかのような振る舞いをして、いい気なものだと思えるところが少なからずあります。それでもあの世話のやけた幼児が一人前の口をきくまでに成長したかと内心頼もしくも思い、子のいろいろの欠点を見抜きつつも、わが子かわいいの思いから、この親を踏み越えて先々成長せよと願い続けて止まないのです。
 親離れ子離れがうまくいかずに、難儀する場面をよく目にします。作者と作品のような関係に誤解するためでしょうか。子は親の作品ではありません。子自体の中に育つ力(可能性という神様)が備わっていて、日々成長発展していくのですから、それを妨害しないで、守役に徹することが大事なのです。認め受け入れ、時には反対に壁となって、子の力を伸ばすのに最善を尽くすことが親の役目だと思います。親の満足のために子を調教するのでは、育ち合う関係にはなりえません。
 親の心子知らず、子の心親知らずと言われるように、互いに理解がつかないで難儀するのが世の常。親は子の立場を経験してきたのだから、まだ理解しやすいはずです。その点、子は親の心が分かるのに随分の苦労をしなくてはならないのかも知れません。
 神様にとって人間はわが子だと言われます。その不肖の子、人間は勝手気ままで、なぜもっと見目麗しく生んでくれなかった、なぜもっと強運に生んでくれなかったと、親を責めることにかけては際限なく、恵み与えられた恩恵に感謝することは後に回して顧みない場合が多いのです。
 教祖様が親神様から絶大な信頼を得られたのは、自分の気持ちを分かってくれという要求よりも、親なる方のお気持ちを分からせてもらいたいという、尋ねる心が常に前に打ち出されていたからです。神様からどれほど神意が発信されていても、尋ねる心がなければ、受信できない道理です。「これでよろしゅうございますか?」「私は、何かご無礼を犯しているのではないでしょうか?」「親様の願われるところを分からせて下さいませ」と、つねづね親神様に尋ね尋ねしておられる中で、互いの心が通う道が開けたのです。
 子を授かって親にならせてもらうことができるならば、それは人生最大の幸福を手にしたと言っても過言ではありません。なぜなら、親がわが身に注いでくれた情愛を、わが子を通して思い知らされ、改めて親に対する思いを深め、親子の関係をよいものに結び直させてくれるからです。遅まきながらわが親に対する恩返しとしてわが子の世話をさせてもらうなら、育児を苦痛とせず、むしろ共育を楽しむ生活ができてきましょう。親子の関係をよい関係に結んでいくことが、助かりの中身の中心となるものと信じます。(了)

(46)利益りやく・おかげ

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