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<お>おそなえ
 神様あるいは取次へのお礼の意を表すささげもの。
 一般におそなえは浄財と称せられ、本教でも「不浄を交えないように」と戒めてきているが、単におそなえという行為だけを正して、それで果たして浄財とすることが可能であろうか。根本的に、この世界も自らのいのちも、すべて神様の御ものという認識の下に、神願成就のためにこの一切を生かさせて頂きたいと願ってやまぬ生活こそが、我情我欲の付け入るすきを与えず、真の意味での浄財を奉らせてくれるのである。
 お金にしろ品物にしろ、自分の財布・甲斐性によっておそなえしたかのような気分が付いて回るようでは、おかげと取引交換をするような形になるので、真のおそなえとはなりがたい。本来信心は、神様と人間との関係が向かい合う関係から重なり合う関係へ、距離を縮めていく営みをいうのであって、自分の財布だとばかり思っていたものが、実は神様の財布であったという発見を経て、その全部を自分の自由にするのではなくて、たとえ一部であれ初穂として捧げることで、神様の御ものを頂戴しますという確認を毎回自分に行うようになる。神様の御ものである以上、その全部を天地のために、人の助かる働きのために、使われてしかるべきなのであるが、せめて一部なりとも神様にささげて、そのことによって、自分の手元にのこした分についても同じ願いで一貫できるようでありたいと願うのである。
 任意による白紙献納を基本とし、寄進勧化をせず、寄付札を掲げずといった教祖様以来の伝統は今に受け継がれている。近年教団・教会の一員としての自覚に立って、その布教活動を支える財源の一端を可能な範囲で分担する形の献納(指定献納)も行われるようになったが、あくまで各員の自主性によっていて、強制・割当てに及ぶことは厳しく禁じられている。自分にとっての重さをめいめいの心がおそなえという形で表わすのであって、「心まかせ」の持つ意味を軽く見てはいけない。
 なお、日本には神仏の前に賽銭を投じて拝むという習慣があり、金光教の場合にもその習慣に従って神前に賽銭箱を設け賽銭を受けるが、誰々という名前を明らかにしないで喜捨する練習として、これはこれで意味あるものとなしえよう。
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