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<き>祈念
 心を神仏に向けて願いを込めること。定められた祈願の言葉を唱える場合もあり、それを複数の人が勢をそろえて行うのを勢祈念といい、また、声に出さずに願いを込めるのを心中祈念という。
 特定の信心をしていなくても、心が痛む場面に出くわせば、何とかこの願いを叶えて下さいと祈らずにはいられないのが人間であります。何に向かって祈るかはあまり問題ではありません。金光大神様は「神だの仏だのと言ってかたぎる(区別する)ことなし」と教えておられます。天地の道理から言えば、祈念を受け入れ応えて下さる神様は、天地の親神様を措いてほかにないので、人間がこしらえた神様が応答なさるわけではありません。手を合わせて祈念する人間の心の中にも神様の分霊がお立ち現われなさり、人間を生み生かしてなさる天地の親神様がご発動になる、それでおかげを受けることができるのであります。
 祈念の中身としては、自分の方に利益を招く祈願がほとんどでしょう。それをしも神様とされては拒否されることはありません。ただ片便で願い捨てに終わるのを残念に思われて、金光大神に取次ぎを依頼されたのでした。
 金光大神は、「祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かるのである。」と教えておられます。祈念祈祷で神をわが意のままに動して霊験を勝ち取るという所業が何の疑いもなく受け継がれてきました。しかし、それはあまりの傲慢、神様に対するご無礼でしかありません。なぜなら、神様の祈念が先にあってそのおかげでこの世に送り出されてきたお互いだからです。生神金光大神様のお取次ぎによってこの天地の道理に目覚め、神様の願いに添うように自らの生活を改めることで、神と人の両方の助かりを実現する道が生まれました。
 金光大神様が、病人のもとに出かけて行って祈念祈祷するのを禁じておられるのは、信心で助かることの意味合いを病気治しであるかのように間違って受け取られるからでしょう。わが手柄にしてしまいかねない危うさも付いて回りますし、それに医薬妨害で取り締まりを受けることも危惧されたのではないかと思います。
 親は子が窮地に追い込まれると、何とかして助けたいと必死になります。子が助かってくれないと、自分も助からない。そこにはただただ助けたいという一心があるばかりで、効果や報酬を求める余地などありはしません。効き目があるかないかを考えてからする祈念は、神様に届くものではありません。人間の小さい都合しかそこにはないのですから。祈念せずにはいられないという神心の発露こそが、真実の人間にまで引き上げて下さるのです。
 祈念は、人間にしかできない営みです。しかも、身体の衰えた後になっても何ら妨げられることなく実行できます。神の子たる真の人間になるために、欠かせない大事な取り組みとして、日々、ご祈念修行に取組んでいきましょう。 
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