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<ご>ご神米

 「およね」ともいう。教会にて取次ぎを願い出た者に対して、確かに神様に取り次いだという意味で下げ渡される。紙で包んだ形が剣の先に似ているので、「お剣先」ともいう。
 米は日本人にとって特別の意味をもつのであって、「よね」という呼称がいのちの根という意味であることを挙げるだけでも、その特殊性を理解することができるだろう。米に宿る穀霊への信仰も根強く、米を粗末にするとばちが当たるというのはご苦労の賜物という以上に、霊的な神聖な価値を有するからであったに違いない。かつては人の臨終に際して米粒を含ませ、魂を呼び返す風習が広く見られたのも、同じ信仰によるものであった。米を酒にすれば、一層目に見えてハッピーな気分になることができ、神様との一体感を高めることができる。余談ながら「さけ」は、神様のエッセンス、これを飲めば「さち」「さかん」「さかえる」状態を体感することができる。
 米と米から作る酒を、神様へのお供え物の中でも特別必須の物としてきたことには、このような背景が考えられる。
 金光教の布教は、おみきあるいはご神米を頂いて病気を治す体験をした人が、身近な隣人に同じ取り組みを勧め、助かりへ導く形で進められた部分が過半を占めると言ってもいいのではなかろうか。医療がいまだ未発達でその恩恵に浴することができない大多数の未信奉者に対する布教活動としては、おみきあるいはご神米をもってする人助けの成果に目覚しいものがあったことは容易に首肯できる。それだけに官憲の目からすれば、文明開化に逆行する医薬妨害の嫌疑をかけるに足るものであった。
 薬をとるか、ご神米をとるかという、二者択一の思考ではご神米も薬と同等のレベルにまでひきずり下ろされ、治療効果だけで価値判断されるものとなってしまう。ご神米は、親なる神様の人間に対する「助かってくれよ」という願いをこそ送り届けるもので、その願いを頂くことによって神様の子どもとして生まれ変わらせる、その働きをこそ最大限発揮させるのでなければならない。
 医療が発達をとげ、万人が病院で死に往く今の時代、ご神米もおみきももはや出番がないと考える向きが多いかもしれない。しかしながら、病気が治れば万歳といって通れるほど結構な時代だとはとても思えない。物質の世界だけを見ているかぎり、ご神米といえども米粒に何の変わるところも見えず、ここに現代の最大の難儀を見る。この世に生み出されてきた存在の一つ一つに込められてある意味がつかめない、これほど難儀なことはない。すばらしい特効薬を与えられて命拾いできたとしても、わがいのちそのものに何の意味も見出せないことになっていては、助かりを得ましたとは言えないだろう。ご神米には天地のいのちに結び付ける祈念力が込められているのである。
 ご神米がたくさんたまったので教会の方で引き取ってくれと申し出られることがある。どれほど人を助けることができるか計り知れぬ力のみなぎった宝物を持ち腐れにして、何とも思っていない人が少なくない。今はご神米受難の時代であると言わねばならぬもののようだ。
(42)八つ波のご紋へ 

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