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<お>奥城 おくつき
 墓所。万葉集にも登場する古語。おく=最後、き=囲われた場所。「つ」は「の」に同じ。つか(塚)(=土を盛ったところ)とも称する。死者の亡骸遺骨遺灰を納めて木柱または石碑を建て、拝礼する。これとは別のところに、参るための墓を設ける場合もある。
 特に葬送に関しては、その土地ならではの慣習に従わざるをえないところがあって、金光教独自の表現がどこまでなされてきたか、疑問に思われる部分も少なくない。世間では死に対する「けがれ」の観念がなお根強くあるために、葬儀に参加した者には清めの塩を配り、喪中にある間は神前を避けるなど、禁忌が付いて回る。今でも友引の日には葬儀を行わず、墓を建てるにも、家を普請するのと同様、日柄を選ぶ場合が多い。これらは不幸災厄を免れたいと願うところからの一種のおまじないに違いないが、金光教では死をけがれとは見ないし、日を選ぶこともしない。
 金光教祖金光大神は、亡骸はつとに入れて川に流してもよいが、霊を大切にせよと教えた。生まれるのが神様のおかげなら、死ぬのも神様のおかげであるといい、肉体を失ってもこの天地の外に行くのではなし、目には見えなくても霊の神となって、生前以上に人を助け導く働きをなし通すのであると説いた。生死一貫して天地の中でお世話になってお引き立てに与るという、断絶のない、安心の道を取次ぐ金光教の立場からすれば、墓所は先人達がおかげを受けて天地に帰って行った入り口であり通路であると言ってよいだろう。家で霊舎や仏壇に霊を祀っておれば、墓などいらないという理屈も成り立つが、現に肉体を持って生きている私達の安心のためには、墓に詣でて先人達の肉体の行方を間近に拝することを通して、天地の道理を悟ることも必要と思える。
 都会では墓地の供給が追いつかず、ロッカー式の納骨施設をもって墓に代えることが行われだした。もっとIT時代にふさわしく、バーチャル墓苑まで試みられているという。拝む側の心の問題と割り切ってしまえばそれまでのことながら、天地の
ふところに抱かれて安心という境地を体得するのには、あまりに人工に過ぎて、第一死者の肉体はどうして天地に帰ることができるのかしらと心配になってくる。どうも火葬の時点ですべては終わるということか。
<参考>
 現在でも日用語として用いる「ひつぎ(棺・柩)」ひ=霊、き=入れ物。ただし、皇太子を意味する「ひつきのみこ」の「ひつぎ」は、ひ=霊、つぎ=継。

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