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<た>玉串(たまぐし) 

 

 榊の枝に紙手(稲妻型に細工した紙)を付けたもので、神前・霊前に捧げ供える。紙手に重ねて紅白の絹や麻緒を付けることもある。
 日本で古くから神様の依り代として幣(みてくら)
を用いたのが淵源となっていると思われる。「くら」とは神様の座であり、手に持つくらを「てくら」、これを手にして舞う舞を「かみくら=かぐら」という。
 形として見た目には、神道の形式そのままといえるのであるが、わが心に生まれた神を託す形式として、これ以上適当なものは他にないとの判断によって、祭典中に玉串を供えることを金光教の様式中に取り入れているに過ぎない。もとより金光教の神様の概念が古来日本の神観念とは全然違うのであるから、玉串の意味合いも、供える者の真心を象徴するものとして理解し直す必要がある。
 榊の枝が用いられるわけは、常緑樹でしかも紙手などを付けても落ち着く形をしているからであろう。「さかき」は、栄え木であり、もともと「さ」は神様を意味する語であったといわれるように、神饌物はさけさかな、神幸はさいわいと、盛んに「さ」の付く語が並ぶ。さかえさかんも語源は同じ。余談ながら、五月をさつきといい、さみだれの中でさおとめさなえを植える農作業そのままが神事であったことをも、「さ」の語は物語ってくれている。
 これも余談ではあるが、紙手が稲妻の形に仕立てられてあるのは、描き得て妙というべきか。姿がないから「かみ」なので、その姿のないものをどう表現するかということは、難問も難問。まことに稲妻は、神の豊饒(母性)と叱咤(父性)を伝えるにふさわしいメッセージの送り主であったと思える。
 金光教では、わが心に生まれた神をそれに託して玉串を供えるのだとは言うものの、事は言うほど容易でない。神心も鬼心も混ざって明滅する自分の心を神様の前に差し出して、目をそらさないことが、人様との関係、神様との関係を間違いのないものにしてくれるのだと、私には思えてならない。

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