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<じ>寿命
 この世において生きることを許された時間。現世でのいのちを全うし終えた時に初めて知れるのであって、普通は予知できない。
 科学的な解明が進んだ結果、生命の誕生も神秘的なものから今や操作の可能なものへ、大きくそのイメージを変え、体外受精やクローンなど応用技術の進歩が、子(新たないのち)は授かるものから作るものへと、大方の意識に変化を生じさせたことは否定できない。いずれ遺伝子に操作を加えることによって、老化を妨げ寿命を引き伸ばすことも夢ではなくなるのではないか、そんな期待さえも抱かせられる。
 特定の人間の生存を許すか許さないか、人間が判断し行使する場合、これまでの例を挙げれば、優性保護という名目で遺伝子上に不具合を持つ子孫の出生を断つことが強制され、妊娠中絶も広く行われてきている。死刑もそうだ。しかし、その生存を許されず寿命を断たれた側から「何をもってお前さま自身は、生存を許されているのだと主張できるのか?」と問われた時に、まったくの汚れなき純白にして有益一辺倒の自分であるとどうして証明できるであろうか。むしろ何がしかの汚れを含み持ちながらも、わが子かわいいの神心ゆえに許されて、このように生かしてもらっておりますというのが真相ではないのか。人間の都合で生きる資格・生きる権利の有無を裁定することは、いのちを生み生かしておられる神様に対する越権以外の何物でもない。
 生命誕生あるいは救命医療にかかわる技術的な進歩によって、生命の世界に人間の介入できる部分が飛躍的に拡大したことは事実だとして、それゆえに一層の慎みが求められているとしなければならないのだと思う。なぜなら、人間の手の及ぶ世界の拡大を単純に賛美していられるほど、人間の持ち合わせる諸内容が完璧にして調和に満ち満ちているとはとても思えないから。
 いのちが神様からの賜り物である以上、寿命という生存に対する時間的な制限もまた賜り物であり、所詮生死は神様のご都合に委ねるより外ない。いのちを賜り物と頂けばこそ、押し頂いて一筋に生かす道を歩むことができる。人の手になる工作品となれば、出来栄えの如何が問われ、失敗作は廃棄の対象とされ、いつどういう形で終止符を打つかが問題になるに違いない。
 個々の人間の思惑を越えて、神様は自らの内容たるいのちを更新リレーしつづけられる一方、「人助けたし」の一心の願いを体現する永世生き通しのいのち(生神)になる道を用意された。これが生神金光大神取次の道である。
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