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<き>教会
 生神金光大神の取次による救済を図るために設けられた願い礼場所。信仰的には広前と呼び、教務的な手続きを経て教会となる。
 公認されようがされまいが、自己の救いを得る場としての取次広前さえあれば、つまり信仰的に結ばれてありさえすれば、事足りるとは言いうる。しかし、社会から種々の圧迫を受け、弾圧にさらされては、その信仰の存立・継続を危うくすることも、歴史が物語るところである。かくして教祖広前は、明治18年に至り「神道金光教会」として公認の教団となる道を進み、各地の出社(でやしろ)広前も教会所として教務的なつながりのもとに結収されることになった。
 戦後、国家の統制から解放されて、金光教も本来のあるべき姿を表現するよう自己改革に努め、従前の縦型つまり親教会子教会の関係とか、等級によるランク付けとかを廃し、本部大教会所を教団の広前と位置づけて各教会等しく生神金光大神取次広前と規定し直した。法制上では、宗教法人法により、宗教法人「金光教」に包括される被包括法人・宗教法人「金光教○○教会」という形の教会(法人教会)と、そうでない教会(非法人教会)の2種類が生まれたが、財産の帰属と管理、税の優遇適応に関して違いがあるに過ぎない。 
 教会では、救済、育成、奉仕、伝道、を行うものとされる。それぞれ重なり合う部分もあるが、取次者と二人三脚で取り組んでいくうちに、神様とのあいよかけよの生き方を練習していくことになる。奉仕・伝道も他者のために行うようでいて、実は自分の助かりに深くかかわっていることが分かってくる。助けられた者がお礼の御用として人を助けるお役に立たせてもらう、ご縁のネットワークをより厚みのあるものに展開していく、そのための共同体として意味あらしめるように願われている存在だと言える。
 自己保存を目的とした取り込む方向の動きに傾かないように、全体の助かりと立ち行きのために差し出す動きを絶えず工夫し、開かれたあり方に努めていきたい。

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