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<じ>自他力
 宗教を自力教と他力教に区分けすることがあるが、金光教は?と聞かれた時には「自他力教です」と答えるしかない。よく「他力本願」を悪いたとえに使うので、真宗教団から抗議の声が発せられたりするが、自力にしろ他力にしろ正しく理解しているかと問われれば、いい加減さを白状せざるをえない。自力を意識しない他力、あるいは他力を意識しない自力は、本来、他力とも自力とも言えないものではなかろうか。他者と無関係に孤立して完結している存在など、何の意味もないのであって、もしそれらしいあり方を指して言うのであれば、我力とでも言っておくのが妥当と思われる。
 さて、人間の誕生から振り返って考えてみるのに、当初本能と呼ぶ部分が働きはするが、ほとんどは他力によっていて、ようやく自我の発達するに従って自己決定の部分が拡大するようになる。そうでありつつ、それは他力を排除することを意味しない。いわばすでに願われ用意されている道筋(他力)の上を自力で歩行していくというのが、真相なのではなかろうか。
 自分の意志だけが至上で、それだけで歩行していると信じて止まない。そういう人生の歩み方では、自分の働き・手柄だけが問題になる。その結果、自分が評価されない時は、生きるよりどころを見失うことにもなる。これが我力に潜む問題点であり、本来の道に立ち戻らせるための注意喚起となりうるところでもある。
 自分の意志とは言いながら、天地全体がこの世において助かりの世界の実現を願い通していて、その働きかけ(他力)によって自分という者も全体世界の一員という役目に与り、そういう関係のもとに人生を歩み助かりを求めて働く(自力)、これが自他力の意味するところである。
 金光大神は、我情我欲を放れよと説いた。すでにわが身に蒙っているものへいかほども応答せず、まだ手に入れていないものへのみ関心を向けて、不満ばかりを膨張させて止まるところを知らない、こうした我力の生きざまも、教えの鏡に照らされなければ、そうと気付かされることがない。自身の我力ぶりに気付かせられて初めて自他力へと軌道修正に糸口が開け、神と人と共に助かる世界へと歩み出せることとなる。

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