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<な>難・難儀

 日常生活に支障をきたし、生きていくことを困難にさせる事態を(災難)といい、その事態のただ中で途方に暮れ、苦悩している様を難儀という。

 難を神の仕業だと受け止め、難に遭えば<たたられた、罰を受けた>として、神とはまるで相入れない仲であるかのような気分に陥るのが大方の傾向であろう。神にとってははなはだ不本意なこうした事態に、ようやく打開の道が生まれたのは、金光大神という人を得たことによる。

人間は、科学的探究の成果を駆使して難に出会うことを極力減らそうと努力している一方で、高度に発達した科学技術が災いして、地球温暖化現象や遺伝子損傷など、新たな難を招くことも少なくない。また、人生においては、新しい段階に及んで未経験の事柄に挑戦していかなくてはならないことが繰り返し起こってくるが、ここでもうまく壁を乗り越えることができないで難儀に追い込まれる場合が後を絶たない。

 人生は難儀の連続だと言っても過言ではない。生きること自体が矛盾に満ちているからである。人生をスタートさせた時点ではいわば無限大の土俵で生かされるままに生きて、矛盾も難儀もないのが、やがて自身の意思をもちそのわが土俵がすべてであるかのように思いなして生きようとする、ここに根本的な矛盾が避けがたく存することを金光大神は指摘してやまない。

 神としては送り出した責任を貫いて人間の助かり・成長を願わない時はないのであり、たとえ日常が破れて非常が露出するという、人間にとってはありがたくない難の襲来に出会っても、神は最大限繰り合わせをつけて、立ち行きを願い通して下さっているのだという了解が金光大神の取次ぎによって可能になった。そのおかげで神も人も共に助かることができるようになった。

 戦争も病気も天災も、何でもが神の仕業だというのは、神にとっていたたまれない、耐えがたい仕打ちと言わなくてはならないだろう。人間が自ら難を引き起こし続けている、自身の責任にかかる面を厳しく見極め、おわび申し、自らに引き受けなくてはならない部分を行き届いて果たすように努めていく必要がある。自分の都合ばかりをふりかざして神様のお出ましを妨げる人間のありようそのものが、神様にとっての最大の難儀なのだということに気付かねばならない。

三代教主金光様の教えに「難はみかげ」とある。日常に裂け目が生じたことによって、普段は見えにくい根底なるもの(日常を成り立たしむる無限の世界)が目前に現れ出てくる。難は、生きる主体に神人関係の結び直しを迫るメッセージとなり、その向きでの取り組みが必ず大きな実りをもたらすである。

(36)自他力へ

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