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<み>身しのぎ
 専門家に頼んで拝んでもらう信心から脱して、自分で拝んでおかげを受けること。
 金光教の救済は、生神金光大神取次によって成就するのであるが、それは教会という限られた取次の場でしか果たしえないもののように受け取られやすい。それならば、専門家に頼んで拝んでもらうのと、どこが違うことになるのか。
 身凌ぎができるようになれとのお勧めを、自分と神様の直接取引きでやっていけというふうに受け取るのは皮相的に過ぎる。単に人間があり神様があって、この両者が相対し取引を図る構図を描くとすれば、神様の生命を小さく見誤り、操作可能なものとみなす意味において、これほど神様を冒涜する話はない。人間の思い上がりここに極まれり、と言わなくてはならない。
 天地の一大生命を拝する時に、拝している自分自身もその生命の分霊であることを踏まえれば、通底する一体のいのちを形成するものとしては、もはや取引するような感覚を持ち込む余地がないというのが本当のところである。
 生神金光大神取次によって救われると言うのは、神の中に人が生き、人の中に神が生きて働いておられる、その働きに触れて、自分自身のところにも同じ働きが生まれ働くようになるという意味にほかならない。教会に参って取次を頂くのは、そうなるための仕込みのようなものであって、もしそのことに関心を払わず、単に拝んでもらうだけの依存的なあり方を続けるならば、早晩意のままにならぬ事態に直面するに至って、きっと払いがたい疑念にとらわれることになるだろう。
 生活のただ中で時々刻々に救いが成就していかなければ、お互いはとても生きていけない。生神金光大神様は、来てくれというところへは、どこにでもお出ましくださり、お取次くださるのである。

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