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<お>おわび
 自分の不行き届きや思い違いゆえに、問題を引き起こしあるいは余計な負担をかけたと自覚した時に発する、謝罪の言動。
 金光教祖金光大神が四十二歳のご大患時に、建築にかかわって無礼しておると神様から指摘を受けられ、直ちに恐れ多さに打ち震えながら神様におわびをなされた。教祖伝「金光大神」から引くと、「このたびの建築に当たり、してはならないと言われたのを無理にお願いして、方角を見てもらい何月何日といって建てましたが、狭い家を大きい家にしましたから、どの方角へご無礼しておりますか、凡夫で相分かりません。方角を見て済んだとは、私は思いません。以後、ご無礼のところ、お断り(おわび)申し上げます」(同書60〜61P)とある。
 日柄方角を見るというのは、神の留守になる日と方角を調べて、建築や旅行、祝い事等の行為に及ぶことをいうのである。専門家を頼んで慎重に占ってもらい、その指示通り寸分たがわず取り運んだのに、神様が怒るのは解せないというのが、そこに居合わせた人々の偽らざる心情であったろう。ただ金光大神だけは、日柄方角さえ守れば神様の怒りに触れないで済むとはとても言えないと、すでに気付いておられたがゆえに、事前にお断りを申しておられ、事後の指摘に応じて即座に衷心からのおわびができられ、それに対して神様からよしと聞き届けられることができたのである。
 神様に届くおわびとは、自分の分からなさに立つものであり、事をなすにあたって「ひょっとしてどこでどのようなご無礼を犯しますか分りませんが、どうぞ」と神様に自分を預けてしまう、それがお断りとおっしゃる向かい方であられたと拝する。日柄方角を見れば見るほど、それは神様の留守をねらうのであるから、無礼者と叱られても仕方がないことに違いなかった。
 かつて商家には、やむなく人をあざむきわが利を図ったことをおわびする意味で、年に一度安売りする習慣があった。これを誓文払い(せいもんばらい)といった。現今では、お客様への感謝セールはあっても、おわびの気持ちを込めたそれは消え失せたようである。商家に限らずいずこにても偽装が蔓延する一方で、おわびはうそがばれた時の世間に向けたパフォーマンス、形ばかりのものとなった気がする。
 「申し訳ありません」という言葉そのままの態度を示すのであれば、一切自己を弁護せず、その身を相手に委ねていかなる処断もお受けしますとなるはずだが、身を守るためにおわびをしておこうという態度が見え見えのおわびがあまりに多い。「済みません」と言いながら、これで済んだことにしているのである。神様からご覧になって「なめるな!」と一喝されそうな、神様の怒りを買いそうな、そんなおわびしかできていない私であることを白状せざるをえない。
 余談ながら、おわびの席で「おわび申し上げたいと思います」と言うばかりで、おわびの言葉そのものを言わない場面が随分ふえた。ご当人はこれでおわびを言ったつもりなのだから、モラルの根底が問われる事態であることは否めない。
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