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<も>もったいない
 漢字で書けば「物(勿)体無し」で、物々しさがないこと。「本来重んじられるべき人間や物事が軽んじられて残念だ。」「分に過ぎた処遇に対して感謝にたえない。」といった意味になる。「かたじけない」「ありがたい」と共通する部分が多い。
 言葉はその時代を生きる人々の気分を反映する。身分の上下が厳然としてあった封建的タテ型社会では、敬語が発達する一方で、感謝を表す語も「もったいない」「かたじけない」「ありがたい」が日常語として多用されたが、民主的ヨコ型社会化の進む今日では「ありがたい」のみが生き残り、前の二語はめったに使われなくなっている。親子であれ師弟であれ、多様な人間関係のどの場面でも、何かにつけて「友達のような」関係が主流となっては、もはや、かたじけながる環境にないことは了解できる。また、水道のない砂漠のような場所でなら、たとえ一滴の水でもこぼせば、思わず「もったいない」と言うであろう。全体に物があふれかえって捨てることが当たり前の世の中では、「もったいない」の出る幕が極端に少ないのも自然の成り行きではある。
 神様と人間の関係がどのようであるか、この点についての認識を深め、あるべき関係を生きていくよう努めることは、信心の核心であると言ってよい。金光教祖金光大神は、神様と人間の間柄を親子の関係にたとえて説いたが、様変わりした今の時代の親子関係で受け止めて、これを理解し尽くすことは不可能事のように思える。もともと親子が友達のようであってよいかといえば、もっと生存の根源にかかわる関係を生きるものとして、免れることのできない責任を引き受け合うことを求められているのだと私には思える。だからこそ、神様は人間の助かり立ち行くことを悲願として無条件に願いつづけて下さっているのだ。
 今でもご神前に奏上する祭詞では、「もったいなし」「かたじけなし」が健在である。神様がわが身に注いで下さる無条件の悲願に触れて、思わず「もったいない」「かたじけない」という思いが湧き起こる。「ありがたい」でもよいのであるが、自己の出来の悪さを自覚させられるほどに、無条件で受け入れられて祈りをかけられていることに対し、単に持ち物がふえた程度の感謝の言葉では済まなくなるのである。
 こぼした水も、自分の持ち物が減るので「もったいない」というところ止まりでは、信心の世界に入ってこない。水一滴といえども、神様のご祈念のこもった賜物と受け取るところからの「もったいない」に至れば、これは信心の世界そのものを生きることになる。

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