(3)
<は> 拍手(はくしゅ)  かしわでともいう。
 神前・霊前で拝礼するときの動作の1。左右の手を4回打ち鳴らす。ただし、葬儀式では、忍手(しのびて)といって、音を立てない。
 日本古来の神前における作礼ではあるが、金光教では、4回打つことに特別の意味を付与している。すなはち、世間の人々が4を死に通じるとして忌み避けるのに対して、しあわせの4であり、喜びの4であると教え、広やかな神様の世界に生かされんがための願いの表明としている。
 数字の4を嫌う類の縁起かつぎなどは、これほど科学教育が行き渡った現代にどうしてという思いを禁じえないが、現実には病院でもホテルでも部屋番号に4を使わない習慣が今も広く行われている。このような縁起かつぎ・おまじないに惹かれるのは、人間の弱さゆえで、まことに人間らしいということにもなる。が、反面よるべき確かな根拠を持たずに生きている証拠でもあるとすれば、これは「人間らしい」といって見過ごしていてよいとは思えない。
 右手と左手を打ち鳴らす行為を通して、何を聞きとることができるだろうか。私は、両の手を打ち鳴らすたびに、自分ひとりだけで生きているのではない、必ず相手があっておかげで生きているのだと、この世の成り立つ道理を聞く思いがする。仮に、左手を自分自身だとしたら、右手はこの世のすべて(神様)を象徴しているということになる。願えば叶えられるということは、自分をこの世に送り出した神様がすでにそのことを実現できるようにしていて下さるからである。打てば響く。天地が用意してくれているものと私の願いとが、今出会うことによって一つの形を生み出す。これは私ひとりの喜びにとどまらない。この世のすべてがしあわせに包まれる瞬間でもある。
 確かな根拠、天地に根ざしてこそ、いのち真実生きてゆくことができる。

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