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<た>タブー
 禁忌。集団ごとに、日常の生活において、ある行為を避けるように求められることが決められていて、同じタブーに従うことでその集団のメンバーだとみなされる。
 中国渡来の陰陽道を吉凶判断の有力なよりどころとしていた平安時代以降の日本社会では、日柄と方角に関する禁忌が人々の生活を厳しく束縛した。陰陽五行の理論からは理にかなっているとしても、科学的にはまったく荒唐無稽で、迷信に類するものゆえ、明治以降文明開化政策の浸透とともに消えてなくなるかと思いきに、科学教育の普及によっても、この非合理極まりない呪縛から抜け出すことができず、今日なお、結婚や建築、葬送をめぐってそれぞれのしきたりにくっつく形で姿を現し生き延びている。たとえば、結婚式は大安を選んで行われ、葬儀は友引を避けこの日には行われない。建築にあたっては鬼門(東北方)に便所を建てないなど、そのことにあたる専門業者の勧めによってそれに習い従う場合が多くみられる。
 こうした事態が今日なお変らないのは、お互い明日が知れないという不安が根底にありつづけるからである。たとえ迷信であっても、それに従うことで不幸を免れたいという願望に希望の灯火がともるのであれば、気休めと言われてもそれを無下に破り捨てることができない。あえてタブーを犯すよりも、平穏に無難に事を進めていきたいという、安全志向が働く結果である。縁起かつぎといわれるおマジナイが、最先端技術の粋を尽くした大学病院の病棟でさえ、診察室や病室の番号から4という数字を消し去るという形で守り継がれている。
 科学からは相手にされない非合理性が、かえって人々の不安を吸収し信じる世界に導くのだともいうことができるだろう。これらタブーには、一種の宗教的な機能を果たしている面が確かにある。もし人間が、欲望の赴くままにわが物顔で生きていくならば、全体の調和を破壊して、ついには生存が危うくなることは、いうまでもない。人間の力を越えた大いなる力に服さざるをえない存在であることを悟り、畏怖の感情を持つことで、自らを制する力としていくことは、全体としての維持保存を図る上からも、理にかなっている面がある。
 それにしても、以前ならしつけとして厳しく言われた、たとえば寝ている人の頭を越すなとか、人の写真を踏みつけるなとかいう、いのちや人に対する配慮が、早々に消えていくのはどうしたことであろう。何をしてもゆるされるとなった時の、人間の恐ろしさ、核兵器を持ち出すまでもなく、殺人の道具にますます威力を加えてきている現状からして、いのちや人に対する感覚を鈍らせないように、根気よく作用を及ぼしつづけることが、日柄方角を見るよりもはるかに大事なのだと思えてならない。
 二代金光様は「うそをつくな。盗むな。腹を立てるな」と仰せられた。しようと思えばできることであっても、この一線は守らねばならぬと固く自制できることが、いよいよ大切になってきている。そのむつかしさ、自身の非力さを骨身にしみて分からせて下さり、そこからの立ち行きを願わせて下さるのも、信心のおかげである。

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