(27)

<し>神願

 この天地に満ち満ちている「どうぞ助かってくれよ」という神様の願い。

 唯物主義の立場からは、神様そのものの存在を否定する。この天地宇宙に意志などない。神様といい神願というも、単なる観念の産物に過ぎないとして一顧だに値しないとされる。しかし、例外なくすべてが物質に還元できるというのは、果たして真実だろうか。

 私という人間が、肉体(物質)と分ちがたい形で成立しているのは事実であって、これを疑う余地はない。だからといって、私のすべてを物質に還元できるかというと、分析し元素に分解した途端に失われるものが、私という人間には確かにある。それは観念の産物であると簡単に片付けることを許さない、いのちであり、生きる主体である。

 そのいのちは、どこに由来するのか。一つは、親のまた親、遥かな先祖に発するいのちの流れが自分の所にまで流れ込んできていることに由る。それと同時に、そのいのちは、天地によって存在することを許され養われてきたものであり、天地が生きていることによって、私達は生き物を栄養として絶えず供給され、体内の老廃物を受け取ってもらって、新陳代謝を続けられていることに由る。

 天地もまた単なる物質の集合体に過ぎない、とする唯物論的な押さえは、この世界を人間の都合でいかようにも消費し改変できる、むしろ人間はその技術を駆使して天地を加工する使命を与えられているのだという思いを助長してきた。もしこの世界観を今後も持ち続けるならば、環境破壊に歯止めをかけることができないことは容易に理解しうるだろう。自己の都合に合わせて他を利用するだけの関係ではなくて、天地も生き物として、自らのいのちをまっとうするとともに、その恩恵を受けて人間のいのちも健やかにまっとうされる、生命体同士のよい関係を生きることが願われているのである。

 他ならぬこの私が生きているということは、天地が生きているということであり、生きている主体として、単に物質をやり取りしているだけというに留まらず、健やかに生きよと願いを掛け、お世話になりますと感謝を送る、このようにして日々に応答関係を深めていくことが助かりにつながっていくのである。

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