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<ぼ>凡夫

 取るに足りないただの人。悩み多くしていまだ助かっていない人。

 金光教祖金光大神が、42歳の大患時に、神様に対して「狭い家を大家につかまつり、どの方角へご無礼つかまつり候、凡夫で相分からず。方角見てすんだとは私は思いません」と心底お詫び申しておられます。定められたおきてに従おうと一生懸命に努めるのだけれども、その行為自体、はたしてご無礼を免れることになるのか、それともご無礼の上塗りをすることになるのか。また、これまでおきてを一点の非なく守り切れたと言えるのか。無知非力な凡夫の身には分かりません。・・・これほどの自覚を持てることは、逆に非凡というほかありません。

 世の中の仕組みや習慣に従うより外に生き方を知らないのが凡人の凡人たる所以でありまして、それが神様へのご無礼になっているやも知れぬという認識には、なかなか至りがたいものがあります。しかし、神様からすれば、人間世界で作り上げたものは人間の都合を満たすだけで、天地全体にとってまことに不都合千万という面も多々指摘せざるをえないのです。今の日本の社会で言えば、大量に生産して大量に廃棄する仕組みに支配されていますが、作られた食べ物の4割が捨てられるという事実と、否応なしにそれに加担させられている自分であることを思い知る必要がありましょう。社会全体で共有している習慣となれば何の問題も感じなくなり、むしろ習慣に乗らないで生きることの方が問題にされるに違いありません。そうでありつつも、日本国内に限ればさほど問題にならなくても、目を世界に広く向ければ飢餓に苦しむ人々が多数存在し、その人々に分け与えるべき糧として生かすことなしに廃棄する行為は、間違っているのではないかと自省せしめられるところがあります。

 金光大神がそうであったごとく、既存の制度やおきてに身を任せて助かりを得ることはできません。自分は助かっていない、だからこそ本当に助かりたい。凡夫の自覚に立つからこそ、お礼もお詫びもお願いも真剣ならざるをえないのです。

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