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<ぶ>無礼

 たいていの人は、「お前、ご無礼している」と言われると、「いいえ、そんな覚えはない」と、躍起になって否定するにちがいありません。無礼していると一旦認めれば、どれほどの罰を受けなくてはならないか分からないという恐怖を、本能的に感じてしまうからではないでしょうか。「私は無礼と無縁だ。私は善人なんです。」これが大方の普通の人の自己認識でありましょう。

 自分がこの世に生み出されるについて親に大変な世話をかけたことに対して、あるいは生まれた時点で生きるに必要な、空気も水も食べ物も、衣服も住まいも何もかもちゃんと用意されていたことに対して、これまで一度たりともお礼を言わないで済ませてきたとしても、物心がつく以前のことだからそれは赦されることだ。同じ理屈で、自分の何代か前の先祖がお土地にタン・つばを吐き散らしてご無礼を重ねていたとしても、私の知ったことではない。こんな調子で、わが身にまつわってどんな無礼を犯していても、自分の関知しないことだとして、ひたすらわが善人性を確保しようとします。この身勝手さが、実は一番の無礼として神様から問い質されるのです。

 金光教祖金光大神が42歳のご大患時に、「どこでどのようなご無礼を犯しておりますやら、凡夫で相分かりません。」とお詫びを申しておられることは、稀有のことだと改めて思います。お気持ちを察するに、どれほどの罰をこうむっても仕方のない私でございますという無礼者の自覚を明確に持って、身の凡夫性をひたすらおわび申されたのです。すると、神様が「その方はよし」とおっしゃり、それまでどうにもならなかったノドが開いて、声が出、湯水が越すようになりました。

大病をするような異常事態に直面すると、神仏にたたられたのではと受け取る習俗が一般にあって、たたり逃れの算段に逸早く走るのが普通なのに、金光大神は、神仏を離れては成り立たない私であり、神仏から差し向けられるものの一々が自分の都合で言えば良い悪いの2面があるとしても、真実の愛で貫かれていることを受け切っておられる。ここに「信じる」ということばの本当の意味を見せて頂く思いがします。

日常当たり前にできていたことができなくなる。その時に、これまで思い通りにできていたことの中に大変な神様のお骨折りご苦労があり、そのおかげにほかならなかったと分かる。今まで、どれほどのおかげを受け取ってきているか。その測り知れぬ大きさに対して、どれほどの受け答えをしてきたか。神様のお骨折りご苦労にどれほども報いるところがない、神様を踏みつけてきた自分の姿に気付く時に、神様が罰を下すどころか、よく気付いてくれたとお喜びになる。神様と自分とが心を通わせることができ、心底救われる思いに満たされる。

自分が善人であるがゆえに生きることがゆるされているのではない。神様のお心も知らぬ身勝手なご無礼者にもかかわらず、神様のご辛抱によっておかげを蒙ることができてきたのである。病変は見捨てられていない証拠、今神様の手がかかっているのだと受け取って、神様のお出ましを頂くことが大切です。

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