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<ご>ご理解

 金光教祖金光大神が取次ぎの場において、願い出た者に対し説かれたみ教えのこと。もともと、村の庄屋が村民に訓戒を与えることを理解といったという。道理を明らかにして諭すという意味合いのようである。

 旧教典では、箇条書きの心得風に整序された神誡・神訓に続いて、取次ぎを願い出た者が承ったみ教えをより生の形で採録して『御理解百節』と呼んだ。

 創唱宗教では、教祖の教えが絶対で、これを守り抜くのが信仰であるとする傾向が見られるが、金光教祖の教えは、相手の中に「あなたあっての私です」という姿勢が生まれてくるよう、いわば産婆役のような働きを目指すものなので、一方的な服従を迫るものでなく、聞き手側の承服を前提にしている。理解という呼称は、そうした反教条的な性格をよく表している。

 教祖百年祭時(1983年)に公刊された現行の「金光教教典」には、直接教祖に取次ぎを願い出た人が自記したもの、第三者が聞き書きしたもの、すでに編集されまとめられているもの、という3分類にしたがって、ご理解が収録されている。取次ぎを願い出た人に応じた教えであるため、相互に矛盾する場合もある。酒を好む人には、控えるようにと諭し、酒をたしなまない人には、少しは頂けというような具合である。要は、自分の都合を超えて天地の願いに基づくようにという立場から説かれた言葉である。えてして、自分に都合のよい教えを引き出してきて、自己主張のために教えを使うということが起こりやすいが、これはご理解の本来の願いをないがしろにする行為であると知らなくてはいけない。

 教えは、自分の姿を写す鏡であって、たとえ教条のようにこれを守れと迫る教えであっても、お前はこの教えの一つも守り抜く力を持っているかと問いかけているのである。私は教えもちゃんと守って信心も人並みにやっていますよという人があれば、お前はまだ修行が足らないぞと言われるに違いない。

 歴代金光様の教えもご理解ということがあるが、単にご理解といえば、教祖様の教えを指す。

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