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<い>いのち

 いのちのあるなしは、日常的に見分けることがさほどむつかしいとは思えないゆえ、いのちとは何かを説明することも、わけなかろうと思いきや、これがなかなかむつかしい。

 生き物の生命をとりあげてみよう。個体内部では、無数にして多様な細胞が新陳代謝(物質とエネルギーと情報の交換)を繰り返し、ネットワークを形成していると同時に、外界の他の生物とも相互に物質とエネルギーと情報の交換を行って、天地というネットワーク、一大生命体を形成している。生命体は、内にも外にも幾重にもネットワークを形成することで維持される複雑なシステムであって、このネットワークを作り出す主体をいのちと押さえてみたい。

 中国の古典「荘子」に『混沌(目鼻耳口のない神様)七竅(しちきょう=七つの穴)に死す』という有名な話が載っている。混沌に大変お世話になったお礼に七竅(目鼻耳口)を掘ってあげたら、完成と同時に混沌は死んでしまったという。いのちの本質を巧みに説いた寓話である。いのちは混沌であって、分析に耐えられない。つまり、個々の構成要素を詳細に解明しても、それら要素間の関係性及び全体と各要素との関係性を総合的に把握できなければ、いのちを解明したことにはならない。いのちは、複雑きわまりないシステムとして生きていると言えよう。

 いのちは、遺伝情報によって限定されている面もあるが、他者と交わることによって、自らの置かれている環境条件に適応する向きで自己を変えていく。他者なしには生きていけないいのちは、このような開かれたあり方をせざるをえない宿命のもとに置かれている。

  近年、生命に関する研究が進み、クローンを誕生させるなど、生命にかかわって人為的な操作を加えることが可能となる中で、いのちの全容が人間の手中に収められたかのような錯覚を起こしやすいが、個々の要素間のかかわりという面ではむしろあまりに複雑過ぎて把握し切れるものでないということが明らかになりつつあるということらしい。膨大な数の遺伝子が各々その担う働きをいつ発動させるか、一々についてタイミングよくスイッチが入ったり切れたりしているという、そのこと一つが人間の意識・小さな合理の世界を超えて、大いなる意思を感じさせる。

  無数にして多様な生物の個々の生命を貫いて遥かな太古から連綿と続くいのちの流れがあり、また一方、無数にして多様な生物の個々の生命を包み込んでそれぞれを関連づけ個々の存在に根拠を与える極大のいのち(天地)がある。この世界を単なる物質の集合体として見ているかぎり、そこに大いなる意思の存在する余地はありえないが、しかし、生きている世界・いのちの世界として見ていくならば、その織り成すネットワーク・相互に交わり自己を更新していく姿を通して、大いなる意思に出会うことが可能となるのである。
                   

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