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<し>心眼

 神眼といえば、どこか天空の一角から人間の内外一部始終を見ている神の目というイメージ、あるいは遠隔地での出来事を見通している千里眼といわれるようなイメージ、を一般には持たれるでしょう。心眼はこの神眼と相通じる部分があります。自分の動きをじっと見ているもう一人の自分とか、あるいは今は背後に隠れている可能性を見通す目という意味を含み持っていますから。

肉眼は、目前の現象をとらえますが、自己の欲得というフイルターのかかった目であることを否めません。客観的に仔細に観察する科学的な目は、天眼といいます。拡大めがねに天眼鏡と名付けられた所以です。これらに対して、事態の発する声(意味)を受け止める目を心眼といいます。

わが子が急に高熱を出して病気になったとしましょう。親はあわてふためき、早く手当てをと小児科医に電話を入れたり、氷を作ったり、自分の身ににわかに求められているものを手探りしながら対応に努めます。その時、子供の体に起こっている事態への理解よりも、早く熱を下げなくてはという思いの方がはるかに勝っていることは、大方の経験するところです。子と一体のいのちを生きている親なればこそ、苦しさ辛さから一刻も早く解放されたいと必死になります。

医者は客観的に病状を観察し、体内で起こっている事態について説明します。いわく、今病原菌と戦っている最中ですから、最善の応援をしましょうと。

直ちに解熱効果の現れない中、夜通し子供の額に冷たいタオルをあてがい看病して、体内での闘いを応援することになって、子供の心に親の祈りがしみこみます。早く楽にという肉眼的な思いも、医者の天眼的な説明も、すべて突き抜けて、親子の成長がそこに実現していきます。心眼を開けてみれば、人生の途上に起こり来るすべては育つための肥やしとして意味あることばかりだと了解がついてきます。親は親として、子は子なりに、その身の上に注がれている神願に通うことができ始めます。願われている自己の発見とでも言いましょうか。これが信心による助かりの中身なのです。

(23)いのちへ

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