(21)

<た>助かり

 生神金光大神の取次ぎによって、直面する事態に意味を見出し、難儀が難儀でなくなること。
 自分が助かることだけに気が走っている間は、助かりたいという気持ちは最高に強くても、助かる道筋からは遠く離れていくばかりという感じがします。昔読んだ芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説を思い出しました。大罪人の主人公が地獄に落とされていたのが、お釈迦様のご慈悲によって届けられた一筋の蜘蛛の糸にすがって、上へ上へ脱出している最中のこと、ふと下を見ると、大勢の亡者が同じ糸にすがりついて、後を追うように昇ってくるのが見えました。自分ひとりでも切れそうなのに、これは大変だと思った瞬間、糸は主人公の手元のすぐ上で切れてしまって、元の地獄に急降下したというお話です。

 助かる道筋の第一には、「助かってくれよ」と願っていて下さるお働きがあればこそ、助かることができるのだということ。一筋の糸を届けてもらっている、この身の幸せにお礼を申すことから始まるのだと言えましょう。この救いの糸を独り占めしたことが、助からない結果をもたらしたと、芥川は言いたいようですが、助かる道筋の第二には、「助かってくれよ」と願っていて下さるその願いの中身になって、人の助かる働きにお使い回し頂くこと。自分の実態を知れば知るほど、助けられる側から助ける側へと、そう図式化していうことはできませんが、助けられつつ助ける働きに引き立てて頂くことは、信心による助かりの実際の姿であると思います。

 「助かってくれよ」と願っていて下さる働きが天地に満ち満ちてい、さらに「助かりたい」と願って止まぬ人間がいて、それでも助かることが容易にできていかないのは、どうしてでしょうか? 際限もなく大きく広い天地のふところの、あまりの大きさ広さゆえに受け答えができていかないためだと思えます。天地のお世話にならなければ一時も生きてはいけない自分であるのに、おかげさまでという心を持ちえず、ただ欲望を満たすことだけに一生懸命になっている。利用することにかけては抜け目がないのですが。助かりがたいということでは、人間も天地もどちらも同じです。

 ここに、『生神金光大神の取次ぎによって助かる道』が求められた理由があります。天地の心に通じがたい人間でありつつも、助かる道筋(天地の道理)を生神金光大神によって承服し、その取り成しを受けて、辛うじて天地に結ばれ、助かりの道を歩むことができるようになったのです。            (この項終わり)

(22)心眼へ

表紙へ戻る
TOPへ