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<し>信心

 信心していますという時、どんなことをイメージしてそういうのか、あえて問い返せば、多分「教会に参拝する」「神前で手を合わせて拝む」という答えが返ってくるのではないでしょうか? もちろんそれが間違いだとは言い切れません。信心は神様に手を合わせることから始まると言ってもよいくらいのことではあります。しかしながら、年数を重ねてなお、神様に向かってのおねだりの域を出ないとすれば、その信心には疑問を呈さずにはおれません。

 四代金光様は、「世話になるすべてに礼をいうこころ」と表現されました。また、「空気がなければ生きていけないことは、みんな知っている。けれども、空気にお礼をいう人は少ない。空気にお礼を言っていくのが信心です。」(中央公論1983年9月号)ともおっしゃっています。

 お互いは、自分として受け入れることのできること、できないこと、様々なできごとに出会いながら、日々を暮らしています。ちょうどピッチャーの投げてくる球が、打ちやすい球ばかりとはいかず、打ちにくい球の方がむしろ多く投げられてくるのにたとえられましょう。打ちにくい球が投げられてきた時に、もっと打ちやすい球を投げてくれというのは、他者に対する要求であり、おねだりであります。どんな球が投げられてきても何とかして打ち返せるようにと、自らを育て高めることに努力するのは、信心の願いであります。

 大抵の人は、打ちやすい球ばかりを投げてもらっていると「楽だ」と言って喜びます。これをおかげだと言って遊んでしまう人が多く見受けられます。本当は、楽をした分 練習の機会を失って、それだけ力を日に日に落としていくのですから、ご愁傷さまと言わねばならないことなのでありますが。

 楽ができるのもおかげだとして、わが身に授かった余力を他者の救済に差し出す人は、信心のおかげを蒙られます。神様の願いを実現していく手足にお使い頂いて、自分磨きができ、自分をご神願の良伝導体に仕上げていくことができるからであります。

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