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<と>取 次(とりつぎ)

 金光教祖金光大神によって開かれた救済の営みを生神金光大神取次と申します。個と全体とが同時に立ち行く道をつけて「神も助かり人も立ち行く」世界を生み出すことを目指しています。 
 人間が幸福でありたいと願うこと自体は、きわめて自然な欲求なのですが、その願いが強烈であればあるほど、幸福になれるかといえば、かえって問題の深刻化してくる場合が多いです。たとえば、環境破壊をこれほどまでに深刻ならしめたのは、文明の利器を思う存分に駆使して幸福を追求してきた結果によると、誰もが認めざるを得ないでしょう。真の幸福を手に入れるには、全体との生かし生かされる関係をはずせないことは、すぐにも理解のつくことです。そうでありますのに、真の幸福に向かう道に出会えず、今なお難儀に苦しむ人々が絶えません。
 お互いは自分の考えでこの世に生まれ出てきたのではない。自分は自分の力だけで生きているのではない。生きている天地を母体として、この私は生かされるままに生きている。私も含めてあらゆるいのちは、天地全体が生きていることの反映であり、おかげなのです。さらにいのちの流れに思いをいたせば、はるかな先祖から途切れることなく無数のいのちがリレーされて、その中のひとりが欠けてもこの私は生まれてくることができなかった。そういう多くのいわば見えない命綱に結ばれて、いのちを成り立たせてもらっている私であると思い至れば、命綱と命綱の届く先である天地にお礼のごあいさつを積み重ねていく生活を始めないわけにはいかなくなります。「世話になるすべてに礼をいう心」をもって、全体世界との一体感を深めながら、今日を生きていく。これが神人生活の始まりです。
 人々の求めるところは、病気の平癒であったり、経済の立ち行きであったり、具体的な問題解決の特効薬がすべてと言ってよいくらいのものであります。特効薬さえ手に入れば万事よし。さもなければ、「どうせ直りはせん」と投げ出してしまう。それをそっくり受け止めて、金光大神は、すでに天地という大きな母なる胎内に抱かれてその慈愛のもとに治療を受けたり、天地の財布でやりくりをしてもらったり、お世話になりながら、願いを掛けられてのただ今であることに目覚めよう、と取次いで下さっているのです。
 それほどの願いを掛けられている私でありましたかと目が覚めた時から受け答えが始まって、「どうぞ神様の子どもとして親なる神様の願いに応えさせて下さいませ」と願える人に引き上げて頂ける。しかも、充分な信心ができないとおかげが受けられないというのでは、目前の難儀に押しつぶされてしまいかねないので、「金光大神助けてくれ」とすがれば、いつでも成り代わり補っておかげを受けさせて下さる。これが生神金光大神取次の中身であります。
 世に行われるカウンセリング・人生相談が人間の世界に終始するのとは異なり、取次ぎは、「 私の都合」を成り立たせている「神様のご都合」にまで思いを至らせ、神(=全体世界)と私との関係を結び直して、神になる道を歩ませて下さるのです。

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