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生神金光大神 いきがみこんこうだいじん 
 金光教祖 金光大神(1814年-1883年)によって体現された取次ぎの神のこと。
 金光大神の人格・『分け霊』が磨きに磨かれた結果、1868(明治元)年に至り生神つまり神を生み現す人間、生きながらの神であると天地金乃神から賞せられて、生神金光大神の称(神号)を許された。
 「生神」というと、凡俗とは隔絶した特別な存在というイメージがある。しかし、金光大神は、人間一人の例外もなく皆神様の子供として生まれているからには、やがて神様になるはずの「卵」を等しく頂いているのであると説き、この卵に『分け霊』という名前をつけた。天地の生命が各々の肉体に吹き込まれたものという意味である。誰もがこの『分け霊』を持って生まれ出ていながら、それと自覚する機会を持たないで過ごしている。金光大神は、『分け霊』の拡充によって生神になれと促してやまないのである。
 呼吸・摂食・排泄等々 生存のための営みのどれをとってみても、天地に依存し他者のお世話にならずしてはできない。誰もがみな、ご縁と呼ぶ生命のネットワークに結ばれてこそ、生存し生活することが可能となっている。 そこで、お世話になってお礼を言う、この受け答えの繰り返しを通して、『分け霊』に磨きをかける。それにともなって、自分自身の身に受け取っているものの量り知れなさ、お礼の足りなさがいよいよ深く自覚され、同時にその足りぬ者をお見捨てにならずに、支障なきようお取り成しを願っていて下さる生神金光大神様のお取次ぎのおかげを、身にしみて感じないではいられなくなる。
 人は欲望を満たしてくれるものを味方とし、立ちはだかるものを敵として、それ相応の向かい方を選び取る。しかし、己の欲望に従っているだけでは、立ち行きを願われる神様の折角のご親切を踏みつぶしてしまう危さがついて回る。どうしてもわが内なる神『分け霊』のお出ましが待たれる。足りないだらけのこの私のことを取り成し支障なきようにと日々に願って下さる生神金光大神様に導かれて、助けられているお礼のご用として、私もまた人の助かりと立ち行きを取次ぎ願わせてもらっていく時に、敵という受け取り方が消えてなくなる。このようにして、生命を育むご縁=助かりのネットワークに加わりその厚みを増していく向きで生命を燃焼できると、個々の生命も天地全体の生命もともに充実してくることになる。
 生神金光大神は、このようにして、神と人との間に生かし合う関係を生み出し、両者の立ち行きを実現せしめようと取次いでやまない。
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