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<み>みち 道

 天地金乃神と人間とが共に助かり立ち行くことのできる生きみち。生神金光大神の取次ぎによって現される。
 金光教の布教文書第1号(1871年初版、初代白神新一郎著)の表題は、「御道案内(おみちあんない)」であった。信心の道、生神金光大神取次の道、あるいは単に「お道」といわれる。それは金光教そのものではないかと問う人がいるかもしれないが、お道を実践し助けられた人々の共同体を公認に際して金光教と呼称するようになったのであって、お道そのものは、公認されてもされなくても関係なく、個々人のレベルで人々を取り次ぎ助ける働きをなし通す。両者には完全に重なり合わない部分があることを指摘しておきたい。
 お知らせに「(略)天地の道つぶれとる。道を開き、難渋な氏子助かること教え、日天四 月天四 金神をどうなりともしてみいと申しておれい。」とある(「覚帳」明治9年6月24日)が、お道には、一切の制約を超越して、天地金乃神の悲願=人間の助かりを実現しようとするエネルギーに満ち満ちていると感じさせられる。お道という表現が漠然としてつかみがたいために、金光教あるいは本教と言い換えるように、お勧めなさる向きもあるのだが、果たしてこのような置き換えが適切であるのかどうか。何事によらず普遍的明快さだけを求めていくならば、説明は付けやすくなるけれども、自身の助かりにまつわる信仰情念を表し伝える面では、その分 力を失う恐れがあるのではないか。天地金乃神という神名が定まった後も、金光大神が「金神」を排除しなかった理由を思い起こさせられる。
  
付録 漢字教室 [みち]編
>首は目とその上に髪のある形で、頸(くび)より上の「かしら」を表す。それに「行く」意味のシンニュウと合して、リーダーによって示される到達点の明らかな一筋の道を表す。
 剣道柔道を始め、茶道華道と呼ばれるように、古来技術の修得にあたっては、その技を人間としての生き道と切り離さず、一体のものとして修得させるのを常とした。技は、それを用いる人間によって、生かす道具にもなり、殺す道具にもなることを考えれば、これは道理という外ない。今日のハイテク時代にこそ、いよいよこの道理を踏まえていく必要を痛感する。

>足で踏み固めていくうちに露わになってくるみち。通路。街路。
>余は広い建物。宿りながら行く旅のみち。コース。
>くびれたみち。こみち。

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