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<ま>まこと

 自己の最善を相手に捧げ、ひたすら相手の立ち行きを祈る心が、そのまま言動となって現われること。偽りのない姿。
 人間は、心とは別に言葉だけの世界を構築することができる。しかし本心を偽るかぎり、まこと(真実の言葉)ではない。どのような心の持ち主によって発せられたかによって、同じ言葉であっても、人を動かす力に違いがあり、確かに真心あふれた言葉には、人の心を揺り動かす霊力がこもっていると認めざるをえない。
 しかしながら、自分で自分の心の内を隅々まで明らかに知り尽くしているかといえば、正直なところ、これがよくは分からない。ある時は無償どころか、持ち出しも厭わず、身を粉にして立ち働いて、充実感を得て満足している時もあれば、評価を期待して思い通りのものを手に入れることができないで、腹立たしい思いになったり、落ち込んだりする時もある。そうであれば、心そのものは、「一体どれが私の本心か?」自らに問うて、これですと決めてしまうことができない、流動してやまぬもの、ころころ変わるものというほかなさそうである。
 本心と言動が合致していても、本心が欲に支配されている場合は、最善の姿を現すことにはならない。自分では自己の最善を差し出しているつもりでいても、それが自分の点数・評価を高めるためのパフォーマンスでないと言い切ることは、むつかしいのが実情であろう。そうした厳しい目を通して、到底自分にはまことなるものを持ちえないと悟り、なおもその身をもってお引き立てを願う時に、そのまこととは縁のない者がお引き立てに与っていくことができだす。その辺の事情を明らかに分からせてくれるのは、信心をおいてほかにない。

付録 漢字教室 [まこと]編
>人が逆さになって鼎(かなえ=3本足の鍋のような容器)に詰め込まれているさま。[この原義から顛覆(てんぷく)の顛や充填(じゅうてん)の填という字が作られた。]
中身が充実している意、さらに本物という意味を持つ。
この字の形は、人身御供つまり犠牲を引き受けて全体の助かりに貢献する姿を示唆する。
>言葉と行為が一致するさま。成は、戈(まさかり)で打つ形で、行いを表す。 
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