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<お>おや

 自分を生んでくれた人。父母。さらにそれぞれのいのちの流れをさかのぼって、わがいのちの系譜を形づくる諸霊(先祖)を祖(よよのおや)という。親子関係がすべての人間関係の基本をなすものと認識され、神と人間との関係も、親子のたとえで説かれることが多い。
 つまり、親は、子(新しいいのち)を生み育んで、子の可能性を伸ばす下支え的な働きを荷いながら、親自身の自己変革を期待される存在である。子は親を抜きにしては存在しえず、親は子によって親たらしめられる。親子の関係は、子のない夫婦であれ独身者であれ、親の立場には立たなくても、子の立場には例外なく立っているので、神と人間の関係を説く場合にも、万人が理解しやすいたとえとなりえた。

 親は子に対し子は親に対し、選択の余地を持たない。授かりものと表現されるとおりである。もし親が子を選ぶということが行われるならば、必ず恣意を持ち込んだための弊害、たとえば子の私物化、ペット化、選択の当たり外れに伴う動揺など、生涯にわたって問題と直面しつづけなくてはならなくなるだろう。
 親は、不完全にして欠点の多いままで親になるのであって、親だからと言って子を完全にその支配の下においても、よい結果を得ることはできない。子が育つのは子の中に育つ力が備わっているからだと受け止めて、もっぱら子守りに徹してゆくと、うまくゆくところがある。子と生活をともにすることで、親も育てられる。今この子は何を必要としているかを見誤らないように、見守り、気を配って、育つ力をくじかない、これが子守りの意味である。この後ろ盾を味方にして、子供は失敗を恐れず安心して挑戦を続け、力を獲得していく。

 親なればこそというが、他人ならばさっさと手を放し、そこそこで見切りを付けてしまうところを、親は最後まであきらめず、抱え抜く。どれほどの犠牲も犠牲とは思わないほど、自身と子とを一体化した形で生きようとする。こんな親のあり方に触れて、神様を実感する子もいる。かつては、これが極普通の親のイメージとして描かれえた。近年現実の親のイメージとしては、いつでも誰かに代わってもらえる感じで、親なればこそという部分があいまいになったように見える。社会全体の人材として大切にされるということであれば、それはそれで結構なことではあるが、人材という見方には有用性を物差しにして人間をランクづける態度が基本となっているので、役立たずには居場所を与えない残酷さがついて回る。誰も見向いてくれなくても、親だけは子の可能性を信じて止まない。この親の後ろ盾的な役回りがあって、今日の自分があることを再確認し、今度は、自らの子に対して親役・後ろ盾役を務め抜くことができるように、自らを鍛えなくてはならない。
 お互いに欠点を多く持ちながら、それでも育ちあいを通してかけがえのない価値を親子で認め合うことができるまで、悪戦苦闘が続く。そこに神様から託された親役の、最大の課題がある。
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