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<し> 修行、「行(ぎょう)」「信行」ともいう。
 一般には修行をする人のことを「行者(ぎょうじゃ)」というが、これは衆生を救う専門家を目指して練成途上にある人という意味があり、金光教でも人助けを目指すからには、行者のように水をかぶったり、断食をしたり、行をしなくてはいけないと思う人が相次いだのも、ごく自然の成り行きであった。しかし、そうした人々に対して金光大神は、既成のイメージを打ち砕く教導をしている。
 「水行をするといっても、それは体を苦しめて病気をこしらえるようなものである。」
 「食わずの行をするのは、大嫌いである。食うて飲んで体を大切にして信心をせよ」

 「毎日の家業を信心の行と心得て勤め、おかげを受けるがよい」
 金光大神の立場は、日常の生活こそが神様からの賜物であり、それを支える身体と衣食住それに仕事はみな神様のご用意下さったものである。神様のご苦労に背いて、身体を弱らせるようなことをしたり、仕事を放り出して山へこもったり、そのような行為はご無礼になる。むしろ、神様のご都合によってこの世に送り出されてきた人間である以上、神様のご都合に従って役に立つべく、そのための力をしっかり身に頂くことで神様の思し召しにお応えさせてもらうのでなくてはいけない、というものである。
 
身体を傷めてはならぬという教えは、食べ物も満足に得られない、当時の人々の置かれていた状況を踏まえるならば、「食事をしっかりとれ」という表現になって当然だと言えるが、今の飽食の時代にあっては、「好きなものを欲しいだけ食べることを止めよ」と言い替えねばならんのだろう。つまり、わが意のままになる状況下で、あえて意のままにしないで、ご神意に心を寄せていく行が、求められるのである。
 先覚諸師は、「好きなだけ食い、好きなだけ寝ているようでは、人は助からぬ」と戒めておられるが、自分の都合(我欲)によって動いているだけでは、人を助ける働きになってお使い頂くことがむつかしいことはすぐ理解できる。ほしい、惜しい、憎いの心を捨てて、差し出す行が基本となる。ただし、表行(※)よりも心行を金光大神は勧めている。
 「心行というて、人を不足に思わず、物事に不自由を行とし、家業を働き、身分相応を過ごさぬよう倹約をし、だれにも言わずに行えば、これ心行なり。」
 金光大神も表行をしなかったわけではない。表行をしてみて、自分を生かし下さる大きな働きを体感し、天地と一体になる体験も得られたであろう。が、生活を挙げて信心化する日常的な取り組みをしていかなければ、単なる表行だけで人間が救われるものではないということも、同時に合点されたのに違いない。
 人を助けてなお自分の手柄とせず、物事に不自由を行として、神様のご都合に生きるを喜びとする、この心行はなかなか厳しいが、神・人生活を実現していくには、毎日の生活を練習場として、この心のトレーニングに取組むことが不可欠である。
 ※わぎょう=断食したり水をかぶったり、表立って行う行のこと。                 
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