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<あ>あいよかけよ

 大は宇宙、小は微生物に至るまで、その成り立つ様は「かかわりあって」ということに尽きます。金光教祖金光大神は「神と人があいよかけよで」成り立ち立ち行くのであると表現しました。「あいよかけよ」は、当時の瀬戸内地方の方言で、かごをかつぐ人が呼吸を合わせるために発する「えっさ、ほっさ」の類語だといわれています。その原意に寄り添っていけば、人が神と呼吸を合わせようと努力していくことがまず要請されていると理解できます。

 ただ世間の人は、神との関係も人間同士の関係と同様に、利用する関係としてとらえがちでありまして、それだと「相かかわって」と言っても、give and takeという取引関係を越えることはできません。金光大神は、天地という無限大のいのち(=神)を根源として生み出される人間のいのちであることを踏まえ、神と人は生み出した者と生み出された者、つまり親子の関係として、生み出した神の中に生かされて生きると同時に、自分のいのち中に神が生きて働く、神と人とが互いに成り合う関係を生きるところにいのちの世界の助かりを説いたのです。

 「あいよかけよで立ち行く」と言われる、この立ち行く姿を実現するには、自分のいのちの誕生と生存について、これなしには考えられないという根源の働きに思いを寄せ、お礼を言っていく取り組みが大切とされます。たとえば地球でも大地でも、あるいは水でも空気でも引力でも、あるいは先祖でもよろしい。金光大神は「木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ」と教えていますが、木の切り株とは比べ物にならないくらいに、自分の生存を可能にしてくれている働きに注目し、自分の受け答えがどのようになっているかを問題にするところから始めなくてはなりません。

 気が付いたらこの世に生み出され、息が出来るようにしてもらっていたという事実を踏まえれば、自己のいのちよりも先に生きて働く天地のいのちがあったこと、いのちの流れとして捉えると自己のいのちはご先祖様と別立てのものとは言えないこと、等々、自己のいのちにかかわって、内と外の仕切りがなくなるくらいに全体の中に自己が生かされ位置付けられ、また自己の中に全体が生きて働いて下さることを実感させられるようになります。そうした、中身に成り合う関係を育てていくところに、信心の核心があると思えます。

 昔は、人間だけでなく万物に霊魂有りという考え方が広くありましたのが、科学教育の徹底によって天地をも人間をも物質と見る見方が浸透し、今日の自然破壊・人間崩壊とまでいわれる事態に至っています。こうした問題を根底から解くためにも、「神と人があいよかけよで生きる」日々の練習として、信心生活はますます重要になってきていると言えましょう。

 前教主四代金光様のおっしゃる「世話になるすべてに礼をいう心」は、「あいよかけよ」の神人生活を実現する指針であり、この指針に沿って願いを立てて自分磨きに励む人は、神から信じられる人として人を助けるお役目に用いられるにちがいありません。       

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