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<み>霊(みたま)
 肉体に宿って精神の活動を可能にさせている「たま=神の分霊」を意味するが、その中でも、肉体の死を機に肉体から離れ天地の神に帰一しつつある状態のものを指していう。
 「たま」の由来について、人間が生まれてくるに際して、肉体内に「本心の玉=神の分霊」を吹き込まれて生れてくるので、それで本能に任せて動物的に生きるのでなく、神の子としての生き方が可能になっていると、金光教祖金光大神は説いています。天地に満ちている生命的エネルギーを古代の日本人は「ひ」と表現し、日つまり太陽に発するものと受けとめていたと考えられます。(中国では霊という漢字が雨冠であるのは天地を循環する水に生命のエネルギーを見ていたからでしょう。)「ひのたま」という表現を近代的に解釈して燐光に充てるのは、本来の意味を汲み取らない暴挙というべきです。付け加えれば、「ひと」とは「生命的エネルギーの宿る場」という意味に理解できます。
 古来、霊魂と呼ばれるものが、肉体の死後もなお生き続けて輪廻するとか、たたり障りするとか、いろいろ言われてきました。科学の時代になって、霊とか神とかに関しては迷信と見なす傾向がありますが、個体を構成する要素を物質的に把握することは比較的たやすくできても、それらが触発し合って発する情報を統合調整して全体として平衡状態を保つことを可能ならしめている、超高度な関係を総合的に把握し尽くすことは容易なことでなく、皮肉なことに科学的な究明が進めば進むほど、そこに全体としての立ち行きを実現していこうとして働く神秘な何かSomething Greatの存在を否定しがたくなってきているのも、事実ではあります。
 全体としての立ち行きを実現しようとして働き続ける神を神として認識することができるのも、人間が神の分霊を内在している神の子であるからだと金光大神は説いています。神があってこその人間、「どうぞ助かってくれよ」と願われている中であればこそ、今日のいのちを賜って生きられているのであり、現世に生きている間に感度を上げて行く「たま磨き」が、死後も人を取次ぎ助ける神として働き続けるために欠かせない修行になってくるわけです。
 神も霊も手に取って見ることができませんが、電気と同じく計り知れぬエネルギーを授受することによっていのちを活性化し完全燃焼を可能ならしめます。願い合い頼み合う神と人の関係づくりが、たま磨きであり信心のけいこであるということができましょう。
みたま(旧版)  

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