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<せ>勢信心
 みんなで力を合わせて信心すること。
 神様と自分の関係を深めていくタテ軸とともに、同じ神様の氏子同士の関係を深めていくヨコ軸を大切にして、いわば自分の足で立つと同時に、手はしっかりと隣人と結ばれている、そういう生き姿を目指して日夜けいこに励むようにとの思し召しが込められていると拝します。
 封建的秩序が人々を縛っていた当時、信心さえも個人の自由とはならず、むしろ血縁や地縁に基づく共同体の結束を強化するために一家あるいは一村で信仰する面がありました。身内や村内で病人が出れば、その平癒を祈願してみんなで裸参りをしたりという集団的な取組みが普通でありました。そのような大方の流れに乗って、みんなと同じことをしてそこに安心を得ようという姿勢でいるかぎり、本当の安心は得られないぞというのが親神様の御思いとしておありなのだろうと思います。それで「ひとり信心をせよ」と金光教祖金光大神は教えておらるわけであります。「人間はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。信心に連れはいらない」とご指摘になっています。
 そのように「ひとり信心」を説かれるところに照らしてみて、「勢信心」とは単に群れるのではなく、めいめい神様に心を通わすところからの、神様の氏子同士としての連帯を促しておられるのでありましょう。教会も教団もそのような信奉者の信心共同体としてたえず自己変革に努めていかなければ、やがて力による支配や管理が優先するようになることは推測に難くありません。そうなれば個々人は集団に依存するだけの、ぶらさがり人間になりさがってしまうでしょう。自分の足で立つ、これが基本にあっての連帯であると考えます。
 神様の氏子同士として連帯するというのは、違う意見を持つ人であってもその人をこの世界になくてはならない人として認め手を携えるということであります。反信心にも敵対してかかるのでなく、人間対人間の橋をかけられるほどの勢信心を願っていきたいと思います。

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