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<か>神のてご
 「てご」は、岡山地方の方言で、「手伝い」という意味。
 金光教祖金光大神は自叙伝「覚書」中に、新たに据え付けて容易に回せない石臼を「神のてご」によって鼻歌を歌いながら一人で回すことができた、という体験を記しておられます。人間だけではできそうもないことを、神様とともに取り組んで成し遂げる信心の具体的な姿をそこに拝することができます。
 信心とは言わないまでも、「火事場のくそ力」ということは、広く体験されます。どこからそんな力が加わって、普段ならとうてい持ち上げることもできないような重いものを持ち上げ運び出すことができるのか、何とも不思議に思えることが実際に出来てきます。見えない力が外部から加算されるのではなくて、内部に隠れている可能性が余すところなく発揮された結果というふうに理解すれば、別段不思議なことではないとも言えます。可能性は肉眼で見えませんから、神様と申すほかありません。
 自分の力は一体どれほどのものか。見極めることはむつかしいです。呼吸し食物を消化・吸収し排泄するといった生命を維持する営みすら、自力でまかなうことはできかねるのですから。「神のてご」を受け通して生きるほかないのがお互いの実情なのです。そうと知って、感謝の心を向けながらの生活を送れるようになれば、内なる可能性がより発揮されやすくなることも、体験的に納得できます。感謝と笑いでストレスを軽減して免疫力を高める試みは、すでに医療の現場でも応用されて効果をあげているようです。
 そうした助かりの実際をよく観察すれば、神様が人間を手助けするという一方通行に終わらず、人間が可能性という神様のお出ましを手助けするということも同時にできているのでありまして、そこに「あいよかけよ」と表現される、神と人との立ち行く姿を頂き直すことが肝要と思います。
 

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