(89)
<お>お守り
 神仏の加護を受けるためのお札で、家の門口や柱、車の内外に張り付けるのを守札、袋に入れて身に付けあるいは車内に吊るすようにしたのを守袋という。
 金光教の神前に参拝した人の中にお札を所望される人が結構あります。しかし金光教祖金光大神は、「お札には墨がついとるのみ。お祓いは言うほどずつ消えてゆくぞ。・・・」と説いて、お札をお守りと頼むことを戒めています。また、信者に神名を記した書附を下げる際「これは、守り札ではない。心のまもりである」とも言い添えています。
 不時災難から逃れたいという願望は止むに止まれないものであっても、日常を成り立たせて下さっている親神の加護に先ず気づくこと。そこで災難除けのお札に依存するのではなく、日々の立ち行きを願ってやまぬ親神へこそお礼とお詫びとお願いの心を向けていかなくてはいけないという、金光大神の認識がこのような教えとなって取次がれていると拝します。
 かつて神仏を拝むにも資格をやかましくいい、専門家に頼んでしか神仏との交渉を許されないものとしてきた時代にあって、お札お守りの類は、庶民にとって神仏と結ばれる貴重なよすがであったに相違ありません。もはや家の宗教という縛りも解かれ、個々人の信心を問う時代にあって、いよいよ神・人の関係を人間の都合からでなく、神の願いに添って受け止め見直すことが大切であると頂きます。金光教の信奉者が御神米をお守りよろしく自家用車に取り付けていたりしますが、災難除けのためとしないで、おかげさまでとお礼を申すことから仕事に取り掛かる信心のけいこのためとしていけば、御神米を誤用しているのではないかといった批判にさらされずに済むと言えましょう。
 

TOPへ