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<き>奇跡
 聖者霊徳の力によって常識では起こりえないはずのことが起こり、窮地から救われる幸運のこと。日本では、神仏の不思議な威力の現われを指して霊験といってきました。明治末期にキリストの事跡を語る聖書の中の、miracle の訳語として用いられるようになりました。
 奇跡を期待すればこそ神仏を信仰するのだという人が少なくありません。真実なるものに帰依する手前も手前、「叶わぬ時の神頼み」が大方の実態ですから。もし宗教が常識の枠に収まってしまえば奇跡は期待できなくなります。宗教は、常識の世界にどっぷりつかっている人間をして、常識を超えたいのちの世界に引き上げることを使命としているわけですから、奇跡を現す宗教に価値を認める一般の見方に対して必ずしもそれを否定することにならないと考えます。
 常識に支配された生活とは、自らの欲望の充足に終始するもので、自分以外の他者は、神仏でさえ、わがために貢献して当然である考え、利用価値でのみ評価するものです。そのような人間が欲望を充足する途を絶たれる、つまり死に直面するような時に臨んで、よみがえりを願い奇跡を求めるのは、人間の欲望からという以上に、いのちが、神が、そう願って止まれないのでそれに催されて願うわけで、そこに神の心との出会いが見込まれてあると思えます。金光教祖金光教大神は「一心に願え」と教えていますが、自分が願っているだけでない、神とともに願っている、そういう一つの心になっておかげが受けられないはずがないとおっしゃりたいのだと拝します。親であれば子の上を見捨てることができません。どうでもこうでも何とかと、助かりを願えば願うほどに、そこに神の心がありありと現れ、人間を越えた働きが発動する道理です。
 いのちを賜物と思い知っていのちのお礼を申しながら、神の願いにわが身をささげて生きる生き方が本当なので、そこに向かうよう救いの手が緊急措置として差し向けられる、それを奇跡と呼ぶのです。運がよかっただけでやり過ごしてしまえば、神の心を溝に捨てて便利に使うばかりの無礼を犯すことになります。助かってくれよと願われている私の発見につながることが肝心なのです。自力では呼吸の一つもできない、非力千万な私がこのように生かされて生きている、このような驚きを奇跡はもたらします。
 いのちはわが物という常識が生きなずみの原因となっているわけですから、その常識から解き放たれれば生きる道が開けてくる道理です。生神金光大神取次はそういう道を歩ませて下さるのです。

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