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<す>救い助ける
 日々の生活の上に生じ来る出来事すべてに神の<おかげ>を見出し、わが人生を神の願いのままに<生まれ・育ち・死ぬ過程>として承服することによって、どのような困難も創造の糧とし支障としない生き方に導くこと。
 「助ける」には、危険の除去あるいは負担の軽減に向けて手助けするというニュアンスが感じられます。それと対比して「救う」には、救う側が全面的に引き受けることによって相手を安んじるというニュアンスがあります。宗教では他力本願とも表現されますが、自らの非力の自覚が入り口になっているところから、後者「救い」とか「救済」とかの語を用いることが多いように思います。その点、金光教祖金光大神は「神と人があいよかけよで立ち行く」という救済の世界を提示し、「救い助ける」と表現している場合がしばしばあります。非力な自己ながら、願う氏子に生まれ変わって神願を体現し取次助けの主体となって生きるように、日々成長を願いけいこに励む。助けられながら助けるという神人関係の実現をそこに読み取ることができます。
 人間の一生を顧みると、生後かなり長期にわたって保護者に依存し救われ続ける期間があり、やがて自立してもなお他者によって助けられる期間が続き、家庭を築いてからは家族相互に助け合って生活します。そこにはかつての保護する者と保護される者との入れ替わりが見られ、この入れ替わりの経験をすることに意味があると考えられます。なぜなら、最近子どもに世話をかけたくないという一見謙虚と見える老親の考えが行き渡っていますが、老後において保護される側に立つことを嫌い避ける気持ちがその底にあってのことではないかと思うからです。わが子の世話になりたくない人が、赤の他人様の世話になる介護制度によって自分の頭を高くしたまま通ることがよいとされていることは、救いの実現からして大いに問題としなくてはなりません。助けたり助けられたりという相互関係を、一方的な介護サービスの利用で置き換えて足ると考えるところに、現代人の助かりがたさを指摘しないではいられません。
 

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