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<ば>ばち
 神仏が人間に下す(と世間で受け取られている)罰のこと。
 天罰という言い方があるが、悪いことが起こるとこれは神仏のたたりかと受け止める心情は、科学的な知識の開けた今もなお健在で、たたられぬために日柄方角を見、お祓いに意を用いることが広く行われています。もちろん神ならぬ人間には不完全さがつねに付きまとう以上、問題を指摘されることがあっても何ら不思議ではありません。しかしながら、「私は間違っていない」と言い張りたい人間にとっては、不都合をもたらす神仏の方こそが邪悪だと認識され、身の程知らずにも勝負に出て敵対する関係に陥りやすいのです。
 金光教祖金光大神は42歳の厄年に際し生命の危機に瀕した時、自らの行いに問題ありという指摘を受け、これを「気付け」としてそこに親神の「助けずにおかぬ」親心を感得されました。以降、その親心に応えてその恩に報いる神人あいよかけよの生活を実践し、神も人も共に助かり立ち行く道を開くに至られました。
 「親神は人間を助けようとなさるばかりで、ばちを当てることはなさらぬ」というのが、金光大神の教えるところであります。その意味は、自らの改まり=ステップアップを願われていることに気付いて、その促しに応える関係を生きるようにというところにあります。神を人間にとって都合のよい福の神に仕立て上げ、一向に改まりに向かわないのは間違いであり、また「ばちを当てられた」というばかりで肝心の親心に出会わず、恨みつらみを向けるのも間違いであります。親なる神の親心を受け取り直してそのご恩にお応えできるようにと、生神金光大神による取次ぎが絶えずお働き下さるのであります。
    →罪・とが

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