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<さ>参拝
 本部広前あるいは各地の教会・布教所などに出向いて、神前に拝礼祈念しあるいは祭典等の行事に参加し、御取次ぎを頂く一連の行為。
 世間では、神仏が鎮まり居ます社寺の堂宇に詣でる行為そのものを信心と受け止め、回数多く参拝して願望を聞き受けてもらう、取り引き的な発想を何ら疑問に思わずに受け継いできた。しかし教祖金光大神は、天地をご神体とする天地金乃神がそうした堂宇に収まっておられるはずもなく、ただ生神金光大神の取次ぎ・導きを受けて信心生活を実現するために、広前を設けそこで親神と参拝者の両方の求めに応じることとした。そういう意味合いからすれば、めいめいの信心の育ち具合つまり神を神と立て仰ぐ姿勢に向かっているか、そこを常に問われるのであって、単に回数多く参拝してご利益を引き出せばそれでよいというものではない。
 金光教では、特に決まった修行が設定されているわけでなく、家業の業と教えられているように、生活の全面にわたって神・人の関係を深化させていくことを目指して、生涯おけいこに励むのであってみれば、生活を挙げて信心化する修行の途上で、参拝が重要な意味を持つことは言うまでもない。
 天地金乃神の広前は世界中であるとしても、わが家で拝んでいるだけで、信心が深化成長するとは思えない。なぜかと言えば、自分の都合に合わせて神様を使う、世間流のあり方を変えるには、それなりの自分磨きが必要だからである。教会の定時のご祈念あるいは祭典に合わせて、(それを神様のご都合と頂ききるような)教会参拝に取り組んで、自分にとって不都合なことであっても、ご恩返しと心得てわが身に引き受けていけるだけの力(信徳)を育てていくことが願われているのである。

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